大正七年、三井財閥の別荘「平塚園」として拓かれた敷地に、いまも数寄屋が残る。鶴巻温泉駅から徒歩四分。丹沢の裾を背にした約一万坪の日本庭園の中に、母屋、離れ、山荘露天、そして客室が点在する。元湯陣屋は、宿というより「敷地を建築として読む場所」に近い。カルシウム含有量が世界有数といわれる自家源泉、松岡家が継いだ意匠、そして近年の経営再構築まで含めて、この一軒は近代日本の別荘建築が生き延びるための一つの答えを示している。
※ 目安価格は公開販売価格の集計に基づく参考値で、実際の予約料金とは異なります。1泊2名利用時の1室あたり料金(税込)です。

Media Picks Score: 95 / 100 16室、老舗温泉旅館。
目安価格 ¥198,000–¥264,000 / 泊 (2名1室・通常期)
敷地の起源 — 三井の御寮から松岡家へ
陣屋の敷地は、大正七年(1918年)に三井財閥の御寮「平塚園」として整えられたのが始まりである。当時の平塚・大磯には政治家や財閥の別荘が集中しており、丹沢の裾に湯が湧くこの地は「奥座敷」として位置づけられていた。三井の御寮としての性格は、単なる保養地ではなく政治的意思決定の裏舞台としての機能を含んでおり、その名残は主棟や離れの間取り、庭園から母屋へと引き込まれる導線に、いまも読み取ることができる。
戦後、松岡家がこの敷地を継承し、旅館「元湯 陣屋」として再編する。「陣屋」の呼称は、江戸期の代官陣屋を含意しつつ、迎賓の格式を旅館の意匠に翻訳するための編集的な名付けとして働いている。将棋のタイトル戦の対局場として知られるようになったのは戦後の松岡期に入ってからで、庭園に隣接する対局室の緊張と、宿全体の静けさが同居する構造は、この敷地が「別荘建築の使い方」を段階的に更新してきた結果である。

数寄屋普請 — 柱・梁・欄間の設計語彙
陣屋の建築は、単一の建築家の作というより、複数の棟が異なる時代の意匠を重ねて成立している。主棟の格式が高い書院造の要素を持ち、離れ群は数寄屋の柔らかな寸法を採る。数寄屋の要点は、書院造ほど格を強調せず、茶室ほど極端に縮めず、建具・柱・天井の寸法を細く低く整えることで場を鎮めるところにある。陣屋の離れは、この「格を落として品を上げる」語彙を、迎賓建築のスケールで展開している点に特色がある。
柱は角ではなく面をかすかに削り、梁は化粧材として現しにする。欄間は季節の風を通す装置であると同時に、隣室との視覚的な断ちの装置でもある。庭園に面する広縁は、内と外を溶かすためのバッファ空間として設計されており、椅子ではなく座椅子で滞在することが空間の重心と合う。畳の目、障子の格子割り、床の間の掛軸掛けの位置まで、寸法が一つの体系として整えられている。数寄屋を「装飾のない贅沢」と定義するなら、この宿はその定義が身体に伝わる密度を持っている。
庭園 — 約一万坪の景観設計
敷地は約一万坪。中心に池が配され、母屋、対局室、離れ、山荘露天が池を囲むように点在する。回遊式の日本庭園の教科書的な構成でありながら、明治・大正期の別荘庭園に特有の「西洋庭園の残響」も見て取れる。芝の張り方、飛石の間隔、植栽の刈り込みの高さは、純粋な禅の枯山水ではなく、迎賓のための開放性を含んだ設計である。
季節ごとに景観は入れ替わる。初夏には青葉が池面に映り、秋には楓が対局室の障子越しに紅を落とす。庭園を歩く滞在時間の設計は、宿泊者が「客室にこもる」のではなく「敷地を移動して過ごす」ことを前提にしている。夕暮れ、離れの明かりが池に反射する頃合いには、この宿が単なる旅館ではなく「別荘の使い方」を保存している場所であることが最もよく分かる。
二種の源泉と客室露天
湯は二種類。自家源泉「第一号源泉」は、鶴巻温泉で古くから愛されてきた湯で、湯上がりのなめらかな肌触りを特徴とする。全客室の露天風呂に使用され、肌あたりが柔らかい。もう一方の鶴巻源泉「秦野の千の湯」は、地下深くから湧く塩化物泉で、カルシウム濃度の高さから「世界有数」と紹介される。とろみと僅かなピリつきを併せ持ち、内湯・庭園露天風呂・貸切風呂に導かれている。

客室露天が全16室に完備される旅館は、鶴巻という都心近郊の温泉地においては珍しい。丹沢の地下水系が長い時間をかけて溶かし込んだミネラルは、湯温を保ったまま身体に浸透する感覚を残す。二種の源泉を意識的に使い分ける設計は、湯を「一つの資源」ではなく「二つの性格を持つ素材」として扱っており、宿全体の空間編集の思想と地続きになっている。
料理 — 一番だしの純度と庭の恵み
会席の芯にあるのは、鰹節と昆布から丁寧に引かれた一番だしである。この一番だしの純度が、季節の魚介・野菜の輪郭を保存する。庭園内で採れた山の幸を素材として組み込む場面もあり、器と料理の関係、椀の湯気、切り口の角度まで、数寄屋の寸法感覚が食卓に翻訳されている印象を残す。夕食は個室での供応が基本で、隣客との視線の交錯が発生しないよう、動線が設計されている。
料理を「豪華に盛る」のではなく「静かに置く」の側に振れているのが陣屋の会席の特徴である。この方向性は、数寄屋普請と庭園の景観設計と同じ美意識の延長線上にあり、宿の空間・湯・食が単一の編集思想で貫かれていることを示している。
経営再生 — 数寄屋を継続させるための業務再構築
この宿を建築として読むうえで欠かせないのが、近年の経営再構築の物語である。松岡家四代目の代に、宿泊業の慢性的な赤字構造を反転させるため、社内システムを一から作り直した経緯が広く知られている。予約・シフト・原価管理・客室清掃までを繋げる自社開発の業務基盤(陣屋コネクト)を導入し、稼働率と客単価の同時最適化を行った結果、宿は黒字化し、他の旅館へのシステム提供事業へと発展した。
この経営再構築は、建築物としての陣屋を延命させるための現代的な意匠として理解できる。数寄屋も庭園も、日常の維持コストが桁違いに大きい。維持コストを賄うだけの収益構造がなければ、木造建築は数十年で失われる。陣屋が「大正七年の別荘」を令和のこの日まで残せている背景には、建築を過去の遺産としてではなく、現在進行形の運営の対象として捉える経営姿勢がある。宿を「時間を止めて保存する」のではなく「更新しながら維持する」思想は、数寄屋という建築言語そのものの本質と符合する。
集約レビューが映すこの宿の本質
公開レビューデータを集計すると、陣屋への評価は「湯」「食」「静けさ」「もてなしの姿勢」の四点に集約される。特に湯の質と客室露天の設計、そして庭園の広さに触れる感想が多く、宿全体の空間編集を支持する声が中心を占める。逆に、駅前立地であるがゆえに深山の秘湯的な演出は選ばれておらず、「静寂」は敷地の広さと導線設計で担保されている構造も、複数の傾向として読み取れる。
価格帯は目安で1泊2名 約20万円前後。この価格帯を通年で維持していること自体が、宿の設計思想と収益構造が均衡している証左である。編集部の観察としては、記念日、家族の節目、あるいは建築・庭園を主目的とする旅程に、この一軒は最も強く合う。
Media Picks Score
95 / 100 — 立地(駅徒歩4分・丹沢南麓)、湯(自家源泉+世界有数のカルシウム含有量)、建築(数寄屋普請の格式)、庭園(約一万坪)、料理(一番だしの純度)、経営(自社システムによる継続性)の各軸で高い水準を示す。減点要因は、価格帯が高位で日常利用の間口が狭いこと、そして駅前立地のため深山型の秘湯的読後感を求める旅程には合わないこと。
アクセスと基本情報
- 住所: 〒257-0001 神奈川県秦野市鶴巻北2-8-24
- 最寄り駅: 小田急小田原線 鶴巻温泉駅から徒歩 4 分
- 車: 新東名 伊勢原大山ICより12分 / 東名 秦野中井ICより15分
- 客室数: 16室(全室に源泉かけ流し客室露天)
- 庭園: 約一万坪の日本庭園(回遊式)
- 源泉: 自家「第一号源泉」+ 鶴巻源泉「千の湯」の二種
- 駐車場: 無料25台(予約不要)
- 創業: 大正7年(1918年)三井「平塚園」として起源
よくある質問
Q. ベストシーズンはいつですか?
A. 建築と庭園を主目的とするなら、青葉が池面に映る初夏(5月下旬〜6月中旬)と、紅葉が離れの障子越しに落ちる11月中旬〜下旬を編集部は推す。冬は湯の温度差が最も心地よく感じられる時期で、雪化粧の庭園はさらに稀な体験になる。
Q. 予約のタイミングは?
A. 全16室と規模が小さく、記念日需要と将棋タイトル戦の対局期が重なる時期は数ヶ月先まで埋まる。目安として、土曜日や連休は2〜3ヶ月前、平日でも1ヶ月前の確保が安全である。
Q. 子連れでも泊まれますか?
A. 数寄屋の造作と静けさが宿の主眼であるため、乳幼児連れには段差・畳・食事時間の設計が合いにくい。小学生以上で、庭園散策と会席を静かに味わえる年齢層であれば、記念日利用として成立する。
Q. 建築や庭園の見学だけでも訪れられますか?
A. 日帰り利用の枠が用意されており、食事処の利用者に温泉入浴が案内される。宿泊のハードルが高い場合、この日帰り枠から敷地の空間を体験する道筋がある。
Q. 湯の泉質はどのような特徴ですか?
A. 二種の源泉を持つ。自家源泉「第一号源泉」は湯上がりの肌あたりが柔らかく、鶴巻源泉「千の湯」は塩化物泉でカルシウム含有量が世界有数と紹介される。前者は全客室露天、後者は内湯・貸切風呂・庭園露天に導かれている。
本記事の参考情報
・元湯 陣屋 公式サイト — 客室・湯・料理・アクセスの一次情報
・元湯陣屋の歴史(公式) — 大正7年三井「平塚園」に始まる敷地の由来
・秦野市 — 鶴巻温泉と丹沢山地の地理・観光情報
編集部から
陣屋は、建築を保存するとはどういうことかを、旅館という業態を通して示している。数寄屋も庭園も、時間を止めた展示物としてではなく、日々の予約・配膳・清掃・改修の循環の中で維持されている。この宿を「訪れる」とは、その循環の一日に参加することに近い。次に読むなら、同じく大正〜昭和の別荘建築を継ぐ同ブランドの温泉建築テーマを並べて読むと、陣屋の位置づけがより鮮明になる。