会津東山温泉の谷筋に、明治六年(一八七三)から続く木造旅館が一軒ある。建物七棟が国の登録有形文化財に指定されている向瀧は、温泉旅館として日本で最初に登録された宿である。本稿は宿全体ではなく、敷地南端の斜面に張り出す湯小屋——「きつね湯」「さるの湯」を擁する浴場棟——を、懸造(かけづくり)という古い架構を切り口に断面で読む試みである。清水寺の舞台や三仏寺投入堂で知られる懸造は寺社建築の語彙だが、東山温泉では同じ手法が湯屋に応用された。谷の急斜面に長い束柱を立て、貫と筋交いで支えた木組みのうえに、浴場の床を宙へ張り出す。湯面の真下に渓流が流れる構造である。

※ Media Picks Score は公開レビューデータを集計し、立地・規模・テーマ適合度を加味して編集部が算出した参考値(72–95)です。目安価格は公開販売価格の集計に基づく参考値で、実際の予約料金とは異なります。一泊二名利用時の一室あたり料金(税込)です。

向瀧 — 会津若松・東山温泉 公式サイト

湯小屋を渓谷の宙へ持ち出すための、束柱と貫の架構が一棟。明治の木造を断面で読む。

Media Picks Score: 95 / 100  二十四室、木造数寄屋建築の温泉旅館。

目安価格 ¥62,000–¥68,000 / 泊(二名一室・通常期)


向瀧 — 会津若松・東山温泉 · 明治六年創業、登録有形文化財第一号の木造温泉旅館の玄関棟
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湯小屋を宙に張り出す——懸造の架構を断面で読む

向瀧の敷地は東山川の左岸に位置し、湯本谷の斜面を北西から南東へ下る。母屋・客室棟・大広間といった主要建物は緩斜面に石積みの石垣を組んで水平に据えられるが、浴場棟だけは違う。敷地南端、斜面が一段と急に落ち込む地点で、湯小屋の床は谷側へ五メートル余り片持ちに張り出している。地面から床までの高さは最も深い箇所で七メートルを超える。この高さを支えているのが、谷底から立ち上がる長短さまざまな束柱の群である。束柱の本数は外周列だけで十数本、内側を支える短束を含めれば二十数本に及ぶと見られる。柱の最長は地面から床下まで五〜六メートル。柱と柱は貫(ぬき)で水平に縫い、要所には筋交いを入れて剪断力に耐えさせる構造である。

懸造という呼び名は、清水寺本堂の舞台や鳥取・三仏寺投入堂など、寺社建築の語彙として知られる。短い柱と長い柱を組み合わせて急斜面に床を架ける手法で、平地を造成して建てるのではなく、地形そのものを使う考え方である。東山温泉では、寺社の懸造と同じ発想を浴場という生活建築に応用した。なぜか。湯量と泉源の位置が斜面の途中にあり、その湯をできるだけ短い樋(とい)で浴槽まで導きたかったからである。源泉から湯舟までの距離が長くなれば、空気に触れる時間が増えて湯温は下がり、成分も酸化する。源泉直近に湯小屋を据えるためには、平場のない斜面に建てるしかなかった。


向瀧 — 離れの浴場 · 谷側に張り出す木造湯小屋、湯床の下を渓流が流れる
PHOTO: 向瀧 離れ風呂 — 公式サイトを見る →

七つの湯船すべてが百%源泉掛け流し

湯小屋には「きつね湯」「さるの湯」と称する男女別の大浴場と、無料で利用できる貸切家族風呂が三、合計五つの湯船がある。これに離れの風呂二つを加えると、館内に湯船は七つを数える。すべて加水・加温・循環なしの百%源泉掛け流しで、湯使いの姿勢は創業以来変わっていない。きつね湯は江戸期から「きつね湯」の愛称で知られた温泉保養所の湯がそのまま継承されたもので、現在の浴槽は明治期の改築によるが、湯舟の位置と源泉の関係は江戸期と同じである。さるの湯は男女別の入れ替え制で運用される。泉質はカルシウム・ナトリウム硫酸塩・塩化物泉、源泉温度は六十度前後で、加水なしで適温に冷ますために湯口から浴槽までの距離をあえて長く取り、空気との接触で自然に温度を下げる方式が採られている。

梅雨どきの増水期に、湯床の下を渓流が抜ける

本稿が梅雨どきを取り上げるのは、この季節に懸造の構造が最も視覚的に立ち上がるからである。東山川は普段は浅く穏やかな流れだが、梅雨入りから七月にかけての増水期には水位が一メートル以上上がり、谷を満たす水音が湯小屋の床下から立ち上る。湯につかると、自分の足の下五メートルの位置を水が流れている感覚が音として届く。湯気と渓流の音が同じ空間に重なる短い時期で、編集部はこの数週間を年に一度の架構観察期と位置づけている。同時に、この季節は湯小屋にとって最も負荷の高い時期でもある。雨水で含水比が上がった斜面の挙動、谷風の向きの変化、湿気による木部の膨張——百五十年余の建物が毎年この負荷をやり過ごしてきた事実が、束柱と貫の組み方の妥当性を裏付ける。


向瀧 — きつね湯 · 江戸期から続く湯舟、湯口から浴槽までの距離で自然に湯温を下げる仕掛け
PHOTO: 向瀧 きつね湯 — 公式サイトを見る →

登録有形文化財第一号、七棟の指定

向瀧が一九九六年(平成八年)に登録有形文化財に指定された際、対象となったのは玄関棟・帳場棟・客室棟・大広間棟・湯小屋棟など七棟である。温泉旅館としては日本で最初の指定で、文化庁が建物群を「現役の宿泊施設のまま」保存対象とする扱いを認めた先例となった。一般に文化財建築は使用を停止して保存に回るが、向瀧は宿泊・入浴・食事の全機能を維持したまま指定を受けた。木造旅館を生きた状態で次世代へ手渡す——この運営方針は、湯小屋の懸造を含む各棟の細部に手を入れ続ける日常の補修に支えられている。畳の張り替え、屋根の葺き替え、木部の燻し直しといった作業が年間を通じて回り続けている。

客室は二十四、すべて木造数寄屋の意匠

客室は本館と新館を合わせて二十四。すべての部屋が木造数寄屋の意匠で、床の間・違い棚・付書院といった伝統的な座敷の構成を備える。書院の障子越しに庭の樹影が映る角度や、欄間の透かしの形に部屋ごとの個性がある。客室には浴室がない部屋が多く、宿泊者は館内七つの湯船を回って湯巡りする使い方が想定されている。これは設備上の不足ではなく、湯小屋という建築を体験することを宿の中心に据えた選択である。食事は会津の郷土料理を取り入れた会席で、こづゆ・棒鱈の煮付け・にしんの山椒漬けといった山国の保存食が組み合わされる。

向く人 / 向かない人

  • 向く:
    木造建築・伝統建築に関心のある読者、温泉建築史に興味を持つ建築・デザイン関係者、湯使いの細部を観察したい一人旅・二人旅、登録有形文化財の現役施設を体験したい旅人
  • 向かない:
    全室客室露天風呂を望む人(湯小屋を巡る運用が中心で部屋風呂はない)、幼児連れの家族(木造建築の段差と階段が多い)、ベッド寝具を必須とする旅程(基本は和室・布団)

具体情報

  • 所在地: 福島県会津若松市東山町湯本川向200
  • 最寄り駅: JR会津若松駅からタクシー約15分(路線バス・東山温泉行き 約20分・温泉駅下車徒歩約5分)
  • 客室数: 24室(本館・新館を含む木造数寄屋)
  • 湯船: 大浴場2(きつね湯・さるの湯)+貸切家族風呂3+離れ風呂2=計7、すべて百%源泉掛け流し
  • 泉質: カルシウム・ナトリウム硫酸塩・塩化物泉、源泉温度約60度、加水・加温・循環なし
  • 創業: 明治六年(1873年)— 江戸期は会津藩士の温泉保養所「きつね湯」
  • 文化財指定: 国登録有形文化財7棟(1996年、温泉旅館として日本初)
  • 食事: 会津郷土料理を取り入れた会席、部屋食または個室食事処

よくある質問

Q. 懸造の湯小屋を観察するベストシーズンは?

A. 編集部が推すのは梅雨どきから七月にかけての増水期である。普段は浅い東山川の水量が増し、湯小屋の床下から渓流の水音が立ち上る。視覚的に懸造の意味が最も鮮明に伝わる時期で、湯気と渓流音が同じ空間に重なる短い窓となる。秋の紅葉期も渓谷越しの色彩が美しいが、構造を読む目的なら増水期に分がある。

Q. 予約のタイミングは?

A. 客室二十四という規模に対して通年で需要が安定しており、繁忙期(紅葉・年末年始・GW・お盆)は三〜四か月前から埋まり始める。梅雨どきの平日は比較的取りやすく、本稿が勧める架構観察の旅程なら一〜二か月前で間に合う場合が多い。週末は通常期でも一か月前には予約状況を確認したい。

Q. 客室露天風呂はないとのことだが、湯巡りはどう運用するか?

A. 館内に湯船は七つあり、大浴場二(きつね湯・さるの湯)は時間制の男女入れ替え、貸切家族風呂三は無料で空いていれば自由に使える運用である。離れ風呂二は時間予約制となる。チェックイン後から翌朝のチェックアウトまでに、宿泊者は最低でも三〜五湯を回ることが可能で、湯船ごとの建築と湯使いの差が体験できる。

Q. アクセスは?

A. JR会津若松駅からタクシーで約十五分、路線バス(東山温泉行き)で約二十分・温泉駅下車徒歩約五分。東京方面からは郡山経由の新幹線・磐越西線で約三時間半。仙台方面からは高速バスで約二時間半。会津若松市内の鶴ヶ城・飯盛山などの観光と組み合わせる旅程が一般的である。

Q. インバウンド客の利用は?

A. 登録有形文化財第一号の温泉旅館という位置づけが海外の建築・文化財関心層に認知されつつあり、欧米からのリピーターも見られる。館内の表示と一部のスタッフは英語対応があるが、和室での宿泊・布団寝具・伝統的な食事マナーといった「日本的な様式」を体験する宿という性格上、宿の流儀を学ぶ意思のある旅人に向く。

本記事の参考情報

向瀧 公式サイト — 建物・湯・客室の一次情報
向瀧 公式「国登録文化財」紹介 — 七棟の指定詳細
文化遺産オンライン(文化庁)— 向瀧玄関 — 文化財登録情報
Wikipedia: 温泉関連の文化財一覧 — 比較参照

編集部から

湯屋建築を切り口にした連作の一稿として、本稿では向瀧の浴場棟を懸造の視点から読んだ。脱衣所という前室、掛け湯場という前儀、湯滝の垂直設計など、編集部はここ数か月、温泉建築の細部を一稿ごとに取り上げてきた。懸造はそのなかでも、構造そのものが景観と直結する特異な題材である。寺社建築から旅館建築への転写、源泉の位置と湯小屋の場所の物理的な関係、百五十年の使用に耐えた木造の運用——書き残すべき題材はまだいくつかある。次は何の建築を読むべきか。読者の関心が向く方向があれば、編集部に届くと幸いである。

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