湯屋の入口には、たいてい数十センチの装置がある。紺地ののれん、細く張られた縄、麻ひもの水引、あるいは踏込を完全に閉ざす板戸。男女の湯を分けるその境界を、宿は素材と高さと透過性で設計している。境界の引き方は、入浴前のわずかな心構えを決め、宿全体のトーンをも規定する。本稿は、その数十センチを建築の言語として読み解く試みである。引き合いに出すのは、いずれも近代和風建築の湯屋を今に伝える三軒。四万の積善館、城崎の西村屋本館、そして三国峠の麓に湯を湛える法師温泉 長寿館である。

※ 目安価格は公開販売価格の集計に基づく参考値で、実際の予約料金とは異なります。1泊2名利用時の1室あたり料金(税込)です。

境界は、隠すのか、示すのか

男女を分けるという行為には、二つの態度がある。ひとつは、視線を完全に断つこと。板戸で踏込を閉ざし、内側を外へ一切見せない。もうひとつは、あえて薄い装置だけを置き、その先に別の領域があると示すにとどめること。短いのれん、腰までの縄、房を垂らした水引。これらは物理的にはほとんど何も遮っていない。遮っているのは視線ではなく、意識の切り替えである。湯屋の設計者は、どちらの態度を選ぶかで、湯に入る者の身構え方を静かに指定している。

公開レビューデータを集計すると、この三軒はいずれも「浴場そのものが記憶に残る」という傾向で評価が高い。湯の良し悪しだけでなく、湯屋へ至る動線と入口の意匠が、体験の質を決めていることの傍証と言える。境界の数十センチは、決して些末なディテールではない。

積善館 — アーチ窓の下、大正ロマネスクが引く線

本館1691年建築、現存最古の木造湯宿建築。元禄の湯のアーチ窓が、境界の内側に洋の光を落とす。

Media Picks Score: 89 / 100  22室、湯宿建築(群馬県指定重要文化財)。

目安価格 ¥31,000–¥63,000 / 泊 (2名1室・通常期)


積善館 本館 — 群馬県四万温泉 · 慶雲橋の朱と昭和5年築 元禄の湯のアーチ窓を持つ木造湯宿建築
PHOTO: 積善館 — 公式サイトを見る →

四万川に架かる朱塗りの慶雲橋を渡ると、右手に大正ロマネスク様式の建物が現れる。昭和5年に造られた元禄の湯である。半円のアーチ窓が五つ並び、鉄筋コンクリート造の浴室の上に木造二階建ての客室を載せるという、当時としては異例の構造をとる。この浴場では、洋の窓が落とす光が湯面を照らし、和の湯宿に一本の異なる線が引かれる。境界は性別を分けるためだけにあるのではない。時代と様式のあいだにも、線は引かれている。

元禄4年(1691)に建てられた本館は、現存する最古の木造湯宿建築とされる。踏込から浴室へ向かう狭い通路、太い梁と柱、そして三百年を経た木の艶。ここでは、境界は建築の年輪そのものが引いている。集約された宿泊者の評価では、建物を歩くこと自体が体験だとする声が目立ち、湯よりもまず空間に惹かれて訪れる旅人が多いことがうかがえる。四万という湯治場の記憶を、最も濃く残す一軒である。

西村屋本館 — 数寄屋の内湯、のれんが分ける三つの湯

安政年間創業、城崎の数寄屋。趣の異なる三つの内湯を、のれんと入替の時間が静かに仕切る。

Media Picks Score: 91 / 100  29室、数寄屋建築の老舗旅館。

目安価格 ¥175,000–¥224,000 / 泊 (2名1室・通常期)


西村屋本館 — 兵庫県城崎温泉 · 竹林の庭に面した内湯「吉の湯」、数寄屋建築の湯屋
PHOTO: 西村屋本館 — 公式サイトを見る →

城崎は、宿の内湯と七つの外湯が湯屋文化を分け合う町である。西村屋本館はその中心に、江戸・安政年間から続く数寄屋の宿として立つ。館内には趣の異なる三つの内湯があり、吉の湯は竹林の庭に面し、朱漆の壁と木枠の窓が湯面に温かい色を落とす。ここでの境界は派手さを持たない。腰までの短いのれんと、男女を入れ替える時間の設定。その二つだけで、同じ湯屋がまったく別の領域として立ち現れる。

城崎という土地では、境界は建築の内側に留まらない。浴衣で下駄を鳴らし、のれんをくぐって外湯を巡る所作そのものが、湯と町のあいだの境界を曖昧にしていく。西村屋本館の内湯は、その回遊の起点であり、帰着点でもある。集約された評価では、料理と設えの一貫性を挙げる声が多く、湯屋だけでなく宿全体を一つの様式として体験する旅人に向く。城崎の湯屋文化を最も端正な形で受け継ぐ一軒と言える。

法師温泉 長寿館 — 縄と時間で引く、混浴の結界

法師乃湯は明治28年築の国登録有形文化財。板でも壁でもなく、時間が男女の境界を引く。

Media Picks Score: 88 / 100  33室、秘湯の一軒宿(国登録有形文化財)。

目安価格 ¥59,000–¥77,000 / 泊 (2名1室・通常期)


法師温泉 長寿館 — 群馬県みなかみ町 · 明治28年築の法師乃湯、アーチ窓と杉皮葺きの木造湯屋
PHOTO: 法師温泉 長寿館 — 公式サイトを見る →

三国峠の麓、他に何もない山あいに、法師乃湯はある。明治28年に建てられたこの大浴場は、国の登録有形文化財に指定されている。玉石を敷いた湯船の底から源泉が自然に湧き、それを木枠で囲い、杉皮葺きの屋根とアーチ窓の空間が覆う。この湯屋には、板戸もなければ壁もない。四つの湯船が一つの空間に並び、そこは基本的に混浴である。にもかかわらず、境界は確かに存在する。それを引いているのは、素材ではなく時間だ。

法師乃湯は、日によって女性専用の時間帯を設けることで、混浴の空間に別の秩序を重ねている。壁で仕切らず、時間で仕切る。この設計は、境界を建築の外側に置くという、極めて古い作法の名残である。細い縄や短い暖簾が、場のトーンを崩さぬ最小限の装置として置かれる。集約された宿泊者の評価では、この湯屋の空気そのものに触れるために訪れたとする傾向が強く、建築と湯が不可分であることが伝わってくる。境界を隠さず、あえて薄いまま残す。その判断が、この宿の背骨をなしている。

数十センチが決めるもの

三軒を並べると、境界の引き方に三つの態度が見えてくる。積善館は、建築の年輪と様式そのものを境界にする。西村屋本館は、のれんと入替の時間で、同じ湯を複数の領域へと変換する。法師温泉 長寿館は、壁を立てず、時間だけで混浴に秩序を与える。いずれも、視線を物理的に断つことを最終目的とはしていない。境界とは、遮蔽の道具である以前に、心構えを切り替えるための装置なのだ。

湯屋の入口に立ったとき、のれんの丈がどれほどか、縄がどの高さに張られているか、板戸が完全に閉じているか。その数十センチの選択に、宿がどんな時間を客に過ごしてほしいと考えているかが表れる。梅雨が明け、立秋が近づくこの季節、山あいの湯屋はいっそう静かになる。次に湯屋をくぐるとき、湯そのものの前に、まず境界の意匠へ目を向けてみてほしい。それは、この三軒が見せてくれた設計の思想を、自分の身体で読み解く行為になるはずである。

よくある質問

Q. ベストシーズンはいつですか?

A. いずれの山間の湯屋も、新緑と紅葉の時期が最も混み合う。編集部が推すのは、梅雨明けから立秋にかけての盛夏。木造湯屋に差し込む緑の光が濃く、宿も比較的落ち着いた時間が流れる。積善館・法師温泉のある群馬の山あいは、平地より数度涼しい。

Q. 混浴が苦手でも法師温泉は利用できますか?

A. 法師乃湯には日によって女性専用の時間帯が設けられ、また館内には男女別の内湯も別途用意されている。混浴に抵抗がある場合でも、時間を選べば法師乃湯の空間に触れることができる。詳細は公式サイトで確認できる。

Q. 三軒はどのような旅程に合いますか?

A. 積善館と法師温泉はいずれも群馬県北部にあり、車での周遊が組みやすい。西村屋本館は兵庫・城崎温泉で、山陰の旅程に組み込むのが現実的。いずれも建築と湯屋を目的に据えた一泊向きで、周辺観光を詰め込む旅程には向かない。

Q. 日帰りでも湯屋を体験できますか?

A. 法師温泉 長寿館は時間を限って日帰り入浴を受け付けている。積善館・西村屋本館は日により対応が異なるため、湯屋を確実に体験するなら宿泊が確実である。

本稿の参考情報

みなかみ町観光協会 — 法師温泉のエリア情報
Wikipedia: 四万温泉 — 積善館の建つ湯治場の背景
Wikipedia: 法師温泉 — 法師乃湯と登録有形文化財の背景

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