庭の外をいかに取り込むか、あるいはいかに遮るか。借景は単なる眺望の選択ではなく、設計者がその土地の景観をどう編集するかという判断である。17世紀の中国・計成『園冶』に体系化されたこの作庭技法は、明治の七代目小川治兵衛が京都・南禅寺界隈で大成させ、現代の旅館建築にも引き継がれている。本稿では、東山を引き込む京都の宿、山並みを縁どる城崎の老舗、外界を遮断して内庭で完結させる有馬の宿という三軒を観察し、借景という設計判断の現在を読む。
※ 目安価格は公開販売価格の集計に基づく参考値で、実際の予約料金とは異なります。1泊2名利用時の1室あたり料金(税込)です。
借景の三類型と、その現代的な意味
『園冶』が示した借景の分類は、距離と視線で整理される。遠借は遠景の山や塔を借りる手法、隣借は塀越しの隣接景を取り込む手法、俯借は高所から見下ろす景である。修学院離宮上御茶屋の浴龍池越しに見る比叡山が遠借にあたる。旅館建築においてこの判断は、客室の方位、窓の高さ、植栽の濃度、塀の素材まで一貫した設計言語として表れる。逆に外界の電線や近隣建物が借りるに値しないと判断された場合、塀と樹木で囲い込む選択が取られる。借景は「借りる」と「囲う」の二項で考える方が、現代の旅館を見るには実用的である。
東山を借りる ― 南禅寺 八千代
南禅寺の参道に面した16室の料理旅館。七代目小川治兵衛が手がけた庭園が、東山を借景に取り込んでいる。
Media Picks Score: 89 / 100 16室、京都市左京区。
目安価格 ¥107,000–¥167,000 / 泊 (2名1室・通常期)

八千代の借景は、明治の作庭家・七代目小川治兵衛の流れを受けている。同じ南禅寺界隈で植治が手がけた無鄰菴・對龍山荘・碧雲荘が、琵琶湖疏水の引き水と東山の山並みを庭に取り込んだのと同じ思想で、八千代の庭は東山を遠借の対象として設計されている。本館の客室は庭側に開け、塀の高さを抑えて山際の稜線が視野に入るよう調整されている。料理は湯豆腐を含む京懐石。観光寺院に隣接する立地でありながら、宿の内側はその騒がしさを意識させない構成である。
山を縁どる ― 西村屋本館
城崎温泉の中心に立つ江戸安政期創業の旅館。平田雅哉の数寄屋に、円山川支流の山並みが隣借で取り込まれている。
Media Picks Score: 91 / 100 34室、兵庫県豊岡市城崎町。創業1860年代(江戸安政期)。
目安価格 ¥160,000–¥228,000 / 泊 (2名1室・通常期)

西村屋本館は、城崎温泉が川沿いに形成された谷地形を最大限に活かしている。代表的な客室「平田館」は数寄屋大工・平田雅哉(1900–1980)が手がけたもので、低めの軒と障子越しの開口部から、敷地内の池泉庭園とその背後の山並みが連続的に取り込まれる。これは隣借の典型で、遠借ほど雄大ではないが、湯気と苔と木肌の質感までを視野に収める密度がある。三つの内湯はそれぞれ庭に開かれ、浴室から見える植栽の濃度は、客室から見えるそれと意図的に揃えられている。リレー・エ・シャトー加盟、Relais & Châteaux 系の運営基準に従う数少ない日本旅館の一軒。
外を遮断する ― 陶泉 御所坊
有馬温泉の谷の底に建つ20室の老舗。借景を取らず、内庭と建物の連続だけで完結させる逆の設計判断が貫かれている。
Media Picks Score: 87 / 100 20室、兵庫県神戸市北区有馬町。鎌倉時代創業、現建物の主要部分は1931年。
目安価格 ¥72,000–¥186,000 / 泊 (2名1室・通常期)

御所坊は鎌倉時代に「湯口屋」として創業した有馬最古級の宿で、現在の建物の中核は1931年の建築である。敷地は有馬の谷の最も狭い部分にあり、近隣の建物と道が間近に迫る。この立地条件下で当主は借景の選択肢を放棄し、外界をすべて遮る設計を取った。各部屋の窓は内庭と回廊にのみ開かれ、共用部の中庭は石と桜の単純な構成で、外から音は届くが視線は届かない。半混浴の金泉(きんせん)を活かした内湯は、外光をほとんど通さず、湯と石の触感だけで構成される。借景を取らないという判断もまた借景の語彙のうちにある、ということを示す一軒である。
三軒を貫く設計の文法
八千代は東山を遠借し、西村屋本館は山並みを隣借し、御所坊は借景を取らずに内庭で完結させる。三者の判断は対立しているのではなく、土地の条件と運営の世代記憶に応じた最適解として並んでいる。京都・南禅寺界隈のように借りるに値する稜線がある場所では取り込み、城崎のように川と山が密接した谷では縁どり、有馬のように谷底で外界を選別できない場所では遮断する。借景は風景を借りる技法であるとともに、風景を選び取らない技法でもある。梅雨明けから初夏の青葉の時期、三軒それぞれの庭で取られている判断を確かめてみるのも一つの旅程である。
よくある質問
Q. 借景とは何ですか
A. 庭の外側にある山・寺院・樹木などの景観を、塀の高さや窓の位置を調整して庭の構成要素として取り込む作庭技法。17世紀中国の計成『園冶』で体系化され、明治期に七代目小川治兵衛が京都・南禅寺界隈で大成した。
Q. 遠借・隣借・俯借の違いは
A. 遠借は離れた山や塔などの遠景を借りる手法、隣借は塀越しの隣接景を取り込む手法、俯借は高所から見下ろす景を構成する手法を指す。同じ敷地でも複数の借景を組み合わせる例も多い。
Q. 三軒の中で借景を最もよく観察できる時期は
A. 梅雨明けから初夏の青葉、または11月下旬の紅葉期。八千代と西村屋本館では植栽の濃度が高まる季節に庭と外景の関係が明確になり、御所坊では逆に外界を遮断する設計が苔と石の質感で際立つ。
Q. 借景が体験できる京都の他の代表例は
A. 桂離宮の松琴亭、修学院離宮上御茶屋、無鄰菴(七代目小川治兵衛作)、円通寺(比叡山の遠借)などが知られる。本稿で扱う八千代の庭園は無鄰菴と同じ植治の流れに位置する。
本記事の参考情報
・Wikipedia: 借景 — 作庭技法の概要と歴史
・Wikipedia: 小川治兵衛 — 七代目植治と南禅寺界隈の作庭
・Wikipedia: 平田雅哉 — 数寄屋大工の経歴と作品
編集部から
借景は、視線の設計である。山を借りる宿、稜線を縁どる宿、外を遮断する宿。三つの判断はいずれも、設計者がその土地で何を見せ何を隠すかを選び取った結果である。今号で取り上げた京都・南禅寺界隈、城崎温泉、有馬温泉は、それぞれ作庭の系譜と地形の制約が違うため、同じ「上質な日本旅館」と括られても、内側の論理は別物として読み解くべき対象である。次に書きたいのは、京都・修学院界隈の借景と、九州・湯布院の山並み利用の比較である。
次に読むなら
- 西村屋本館 — 城崎温泉、平田雅哉の数寄屋と外湯七湯への動線
- 庭が先にあって、建築は後だった — 池泉回遊式庭園を持つ高級旅館 3 軒
- 有馬・城崎、文化財建築の客室に泊まる 5 軒 — 大正期から昭和初期の木造温泉旅館
- 雨の日に庭が完成する宿 — 梅雨入り前後、苔と濡れ縁を読むという滞在