白を選び切る宿が、光の側で無彩色を成立させる設計だとすれば、黒に振り切る宿は、闇の側から無彩色を組み立てる。黒漆喰、焼杉、鉄媒染、京都墨。同じ黒でも、素材ごとに反射率と経年の速度がまるで違う。梅雨の薄暗がりに、素材の輪郭が輪郭のまま溶け、灯りの一点だけが際立つ設計判断を、都市と地方の三軒から読む。
※ 目安価格は公開販売価格の集計に基づく参考値で、実際の予約料金とは異なります。1泊2名利用時の1室あたり料金 (税込) です。
黒は、色ではなく、素材の速度である
黒を選ぶ設計は、黒という色を塗ることではない。黒漆喰の左官、焼杉のひび、鉄媒染で沈めた杉板、そして京都墨を練り込んだ壁——それぞれ、光の吸い方も、経年変化の方向も違う。左官の黒漆喰は最初のうちは鏡のように光を映すが、湿気を吸うたびに徐々に艶が引き、深い墨の面へ落ち着いていく。焼杉は表面の炭化層が最初こそ純黒に近いが、雨や風で少しずつ剥落し、下の茶褐色の生地が地層のように顔を出す。鉄媒染は、時間そのものを外皮に写す。
だから「黒に振り切る」宿には、二種類ある。黒を仕上げの一手として使う宿と、素材が時間とともに黒に落ち着いていく過程を、そのまま設計として引き受ける宿と。前者は完成した瞬間から劣化が始まるが、後者は経年で像を結ぶ。以下に挙げる三軒は、いずれも後者に属する。
三軒の判断——場所と素材の対応
1. NIPPONIA HOTEL 函館 港町 — 北海道函館市
築百年の赤煉瓦倉庫を焼杉と黒で締め直し、iF Design Award を受けた九室のオーベルジュ。
Media Picks Score: 93 / 100 9室、伝統的建造物群保存地区内のオーベルジュ。
目安価格 ¥81,000–¥121,000 / 泊 (2名1室・通常期)

豊川町の煉瓦倉庫を、焼杉板と黒瓦で覆い直した。港町の海風と塩害に長時間さらされる立地で、焼杉の炭化層は防腐と防虫を兼ねる伝統的な選択だが、同時に建築の意匠として、赤煉瓦の重量感を締める役目を負う。九室しかない静けさは、外部を黒で切り取った内側で完結する。北欧の料理技法を函館の食材に接続する VMG の食のディレクションと、素材の黒が、視覚と味覚の両方を鎮める。iF Design Award を受賞したのは意匠だけの評価ではなく、保存地区における「歴史素材の再解釈」への評価と読める。
2. 由縁別邸 代田 — 東京都世田谷区
世田谷代田駅から徒歩三十秒、外壁の焼杉と黒漆喰で都心の音を截り、箱根芦之湯の湯を引く三十五室。
Media Picks Score: 91 / 100 35室、UDS 設計の都市型温泉旅館。
目安価格 ¥57,000–¥99,000 / 泊 (2名1室・通常期)

UDS が 2020年に開いた三十五室の旅館は、代田という住宅地の敷地条件に黒で対応した。焼杉の外壁は、隣接する木造住宅の色調を吸収してしまう一方、下北沢方面から歩いてくる旅人には旅館の輪郭を明確に切り出す。黒漆喰の内壁と、庭に面した障子の白の対比は、闇の中に光の面だけを浮かべる、日本建築の古い作法をそのまま現代の三十五室に翻案している。箱根芦之湯からの温泉と、割烹「月かげ」の設計は付随物ではなく、外壁の黒で切った内部空間の完成度を、湯と食で最後まで支えている。
3. moksa — 京都市左京区
京都墨を練り込んだ「炭蒸」サウナで黒を身体で吸わせる、八瀬比叡山口の三十一室。
Media Picks Score: 89 / 100 31室、プライベートサウナ「蒸庵」と薪火レストラン併設。
目安価格 ¥62,000–¥97,000 / 泊 (2名1室・通常期)

比叡山の裾、八瀬の窯風呂の記憶が残る土地に、2022年に開業した三十一室。「解脱・解放」を意味する moksa の名の通り、身体を清める仕掛けとして、プライベートサウナ「蒸庵」の三つの部屋は、それぞれ素材のテーマを掲げる。核になるのが「炭蒸」で、壁面に京都墨を練り込み、面全体を黒で沈める。皮膚に触れるほどの距離で墨を見る経験は、写真では伝わらない。薪火レストラン「MALA」の炎と、サウナの黒壁と、比叡山の緑という三層のコントラストが、moksa の設計の要点だ。素材で押し切る勇気のある宿は、都市部でも地方でも、実は少ない。
白の宿と黒の宿——対概念の見方
白に振り切る宿は、光を反射させて空間の輪郭を強くする。障子、白漆喰、白木の生地。それらは光源から遠ざかるほど自然に減衰する。読者は視覚的に、面の存在を掴みやすい。一方、黒に振り切る宿は、光を吸って輪郭を溶かす。焼杉の外壁は正午の光と夕方の光でほぼ同じ黒に見えるが、黒漆喰の内壁は、灯りを一点灯すだけで、その周辺の面が浮かび上がる。つまり黒の宿は、灯りの計画とセットでしか成立しない。
今回の三軒は、その意味で照明計画の精度が高い。函館の煉瓦倉庫の内側では、天井の低い倉庫空間に間接照明を落とし、焼杉の面がわずかに反射するだけの薄暗さを保つ。代田の割烹では、囲炉裏の火と、庭の障子越しの外光だけが同時に成立するよう、間接照明の色温度を抑えている。八瀬の炭蒸では、光そのものが儀式的に扱われる。素材と灯りの二段構えで初めて、黒は「無彩色の闇」として成立する。
よくある質問
Q. 黒に振り切った宿は、閉塞感を感じませんか?
A. 実際には逆で、黒の面が視線を吸うため、灯りの落ちた場所や庭の開口部だけが際立ち、空間の奥行きが強調される。三軒とも、必ず光の抜け道 (中庭、障子、窓外の緑) を用意して、黒の重さと外の抜けの対比で設計している。
Q. 予約のタイミングは?
A. NIPPONIA 函館は九室のため、繁忙期は三ヶ月以上前から埋まる。代田は下北沢・世田谷代田の再開発と連動して稼働率が高く、週末は二ヶ月前を目安に。moksa は八瀬という立地からリピーター層が厚く、紅葉期と桜期は早めに動いた方が良い。
Q. 建築目的だけで泊まる価値はありますか?
A. 三軒とも建築意匠だけを目当てに泊まれる完成度だが、いずれも料理 (VMG、月かげ、MALA) が同じ強度で設計されているため、食と滞在の総体で味わうのが本来の設計意図に近い。
Q. 白い宿との違いを一泊で体感できますか?
A. できる。とくに就寝前に部屋の照明をすべて落として、外光や間接光だけを残した状態を三分ほど眺めると、黒の面が輪郭を持ち始める瞬間が分かる。白い宿では逆に、光を落とすと空間の情報量が急に減る。
本記事の参考情報
・はこぶら (函館市公式観光情報) — 函館の伝統的建造物群保存地区について
・Wikipedia: 焼杉 — 焼杉板の伝統技法と現代的解釈
編集部から
色を引く宿と、色を沈める宿。同じ「無彩色」でも、白と黒では設計の作法が完全に分かれる。次は、黒とも白とも異なる三つ目の路線——素材の色をそのまま残す「不塗装の宿」を扱いたい。杉、栗、御影石を、加工せずに使い切る宿がある。無彩色の議論は、色の議論だけでは終わらない。素材と時間の議論に、必ず接続する。