京都の老舗旅館では、梅雨が明けるころに建具がいっせいに替わる。襖や障子が外され、葦戸(よしど)や簾戸(すど)に差し替えられる。たかが建具、と片付けるには手間がかかりすぎる作法である。それでも残っているのは、季節を生きる建築という思想が、いまも消えていないからだ。

※ 目安価格は公開販売価格の集計に基づく参考値で、実際の予約料金とは異なります。1泊2名利用時の1室あたり料金(税込)です。

夏に建具が替わる、ということ

建具が季節で替わる、と聞いてもピンとこない人は多い。現代の住宅は、サッシも壁も一年中変わらない。空気の流れは空調機が司り、温度と湿度は数値で管理されている。建築は、もはや季節と無関係に立っていられる。

ところが京都の老舗旅館では、夏が近づくとすべてが入れ替わる。襖は外され、障子は片付けられ、そこに簾戸(すど)が立つ。竹を細く割り、糸で編んだ建具である。あるいは葦戸(よしど)。琵琶湖の北、葦の群生地から刈り出された葦を、戸の枠に張ったものだ。風と光は通り、視線は緩く遮られる。視覚的な体温が、たしかに数度下がる。

入れ替えの時期は宿によって違うが、おおむね6月下旬から7月上旬に始まり、9月の中旬から下旬に閉じる。年に二度、宿が姿を変えるという作法は、文化財建築の研究者のあいだでも「夏建具」として記録されている。建具そのものは古代から日本建築の構成要素だが、季節ごとに差し替えるという慣習が定着したのは、江戸期の京町家・京旅館においてだと考えられている。

1709年の旅館に、いまも残るもの

麸屋町通姉小路を上ったところに、俵屋旅館がある。宝永年間(1704〜11年)の創業とされ、京都に現存する最古の旅館とされる。18室。数寄屋造りの旅館建築としても建築史に名が残る。創業から三世紀を超える宿が、いまも夏になると建具を入れ替える。襖は蔵に納められ、簾戸が立つ。簾戸の素材は、おそらく竹と葦であろう(公式に素材構成を開示してはいない)。客室から坪庭を見たとき、光がそれまでとまったく違う質感で入ってくる。竹の影が、紙の障子では出せなかったやわらかい縞をつくる。これは設備でも家具でもなく、建具という名のもとに行われる、ほぼ年中行事に近い建築の更新である。


俵屋旅館 — 京都・麸屋町 · 1709年創業の数寄屋造り老舗旅館、夏は建具が簾戸に替わる
PHOTO: 俵屋旅館 — 公式サイトを見る →

俵屋から徒歩二分、同じ麸屋町通沿いに柊家がある。1818年(文政元年)創業、24室。川端康成や三島由紀夫が逗留したことで知られる旅館で、こちらも夏には建具が入れ替わる。柊家を訪れた人の感想を集約すると、夏の柊家を語る声には、決まって「廊下の風通しが違う」という観察が含まれる。襖を外し、簾戸に替えることで、廊下と部屋が一続きの空気の道になる。建築の使われ方そのものが季節で変わる。これは、家具を季節で替える、というスケールを超えた所作である。


柊家 — 京都・麸屋町 · 1818年創業、川端康成も逗留した数寄屋旅館の夏建具
PHOTO: 柊家 — 公式サイトを見る →

建具蔵という、もうひとつの建築

夏建具を残している宿は、必ず「建具蔵」を持っている。襖と障子の冬建具一式、葦戸と簾戸の夏建具一式。それぞれが宿の全客室分、つまり俵屋ならば18室、柊家ならば28室の倍に近い数の戸が、外された期間は蔵に納まる。蔵は宿のバックヤードの一角に組まれた、温湿度が比較的安定する空間だ。木の戸を傷めずに長期保管するには、それなりの広さと管理が要る。建具蔵の存在は、宿の運営側からは普段は語られない。しかし蔵がなければ、夏建具という作法は最初から成立しない。客が見ない場所にある建築が、客が見る場所の表情を支えている。

奈良に目を向ければ、興福寺と春日大社を結ぶ高畑町に旅館 江泉がある。猿沢池の東岸に立ち、玄関前の52段の石段を上ると、五重塔が真正面に見える24室の老舗である。京都に比して規模も格式もやや異なるが、奈良の老舗旅館に伝わる夏支度の所作は、京都とは別の系譜を持つ。寺社建築の影響が濃く、葦戸よりも障子を中心とした構成のまま、戸の間隔だけを変えて通風を確保する宿もある。建具入れ替えの「やり方」は、土地ごとに少しずつ違う。


旅館 江泉 — 奈良・高畑 · 猿沢池東岸の老舗旅館、五重塔を望む24室の和の宿
PHOTO: 旅館 江泉 — 公式サイトを見る →

葦と籐と竹のあいだ

夏建具は、素材で呼び分けられる。葦戸(よしど)は葦、籐戸(とうど)は籐、簾戸(すど)は竹を編んだ戸。京都の旅館では葦戸と簾戸が中心で、これは琵琶湖周辺と京都市内をつなぐ素材流通の歴史と関係する。葦は琵琶湖の浅瀬で群生する植物で、戸用に刈り出されるのは葉が枯れた冬から早春のあいだ。それが乾燥・選別を経て、夏の建具になる。素材を作る側にも、夏建具に合わせた一年のリズムがある。

建具職人の手も、この時期に集中する。襖や障子は秋から冬にかけて新調されるが、夏建具の調整・補修・新調は、6月までに済ませなければ間に合わない。京都市内に残る建具店のうち、夏建具を扱う店は限られる。注文は前年の秋から入り、職人は早春から夏建具のために働く。建具入れ替えという作法は、宿の中の出来事のように見えて、実際は宿の外の職人と素材の流通網に支えられた、土地全体のリズムでもある。

金沢、ふたつの茶屋街にも

京都・奈良の例を見たついでに、もうひとつ。金沢の主計町(かずえまち)、東山ひがし茶屋街、にし茶屋街には、いまも夏建具の作法を残す茶屋建築がいくつかある。金沢の茶屋建築は、京都の数寄屋旅館とは異なる平面構成を持つが、建具を季節で替えるという発想は共通している。北陸の夏は京都ほど高温多湿ではないが、それでも建具を入れ替えると、空気の通り方がはっきり違う。重要伝統的建造物群保存地区に指定されたこれらのエリアでは、保存と運営のあいだに緊張があるはずだが、それでも夏建具を守る宿が残っている。

宿が一年で姿を変える、ということ

建具を季節で替える宿に泊まると、同じ宿でも夏と冬では建築のスケールが違うことに気づく。襖を立てたときの部屋は閉じている。簾戸に替わると、部屋の境界がほどけて、隣の間も廊下も坪庭も、全部が一続きの空気のなかに置かれる。空間が広く感じられるのは目の錯覚ではなく、実際に光と風の経路が変わっているからだ。

これを体験するためだけに、夏の京都に行く価値はあると思う。冷房の効いた洋室で、エアコンの音を聞きながら過ごす夏とは別の夏が、麸屋町通沿いの数寄屋旅館にはまだ残っている。次の機会には、建具入れ替えの直後である7月初旬、あるいは閉じる直前の9月下旬に泊まってみたい。同じ宿の、別の表情を見たくなる。

本稿で触れた宿

俵屋旅館 — 京都・麸屋町

1709年創業、京都に現存する最古とされる18室の数寄屋旅館。夏には建具がすべて簾戸に替わる。

Media Picks Score: 94 / 100  18室、数寄屋造り旅館。

目安価格 公開販売の集計データなし / 公式サイトより要問い合わせ

なぜ選ばれるか

京都に現存する最古の旅館として、1709年からの三世紀を超える歴史を持つ。数寄屋造りの建築としても建築史に登場する一軒で、夏の建具入れ替えを完全な形で残している希少な宿でもある。客室18室、麸屋町通姉小路を上ったところに静かに立つ。

集約レビューの傾向

公開レビューデータを集計すると、建築・調度・季節ごとの設えへの言及が突出する。料理と接遇の評価も継続的に高水準で、滞在の所作そのものが宿の表現になっているという観察が多い。価格帯は公開予約サイトには現れず、宿への直接問い合わせが原則となっている。

柊家 — 京都・麸屋町

1818年創業、川端康成や三島由紀夫が逗留した28室の数寄屋旅館。俵屋の二軒隣に立つ。

Media Picks Score: 92 / 100  28室、数寄屋造り旅館。

目安価格 ¥185,000–¥268,000 / 泊 (2名1室・通常期)

なぜ選ばれるか

1818年(文政元年)創業、客室28室。文人の宿として近代文学史にも名が残るが、現在の柊家を語る際には、夏建具の入れ替えを継続している老舗としての側面が重要である。麸屋町通を挟んで俵屋とは目と鼻の先に位置し、二軒を並べて泊まり比べる客もいる。

集約レビューの傾向

公開レビューデータを集計すると、夏の宿泊客から「廊下の風通しが違う」「光の入り方が冬と別物」といった、季節の建具に直接言及する観察が多い。料理は会席で、調度・設え全体への評価が安定して高い。価格帯はハイシーズンに上昇するが、宿の運営が通年で同質を保とうとしている姿勢が反映されている。

旅館 江泉 — 奈良・高畑

猿沢池の東岸、52段の石段を上ると五重塔が真正面に立つ24室の老舗旅館。

Media Picks Score: 88 / 100  24室、奈良和風旅館。

目安価格 ¥13,000–¥20,000 / 泊 (2名1室・通常期)

なぜ選ばれるか

奈良市高畑町、猿沢池の東岸に立つ24室の老舗旅館。近鉄奈良駅から徒歩7分、興福寺・春日大社の表参道沿いという位置は、奈良の寺社文化と宿が地続きであることを示している。建物の構成は京都の数寄屋旅館とは異なるが、奈良の宿に伝わる夏支度の所作を残す一軒である。

集約レビューの傾向

公開レビューデータを集計すると、立地と価格の整合性、奈良の寺社観光との接続のよさへの評価が中心となる。料理は和食中心、家族客と海外からの旅行者の評価が安定しており、京都の超高級旅館とは別の文脈で、奈良の老舗らしい運営姿勢が読み取れる。

よくある質問

Q. 建具入れ替えの時期はいつですか?

A. 宿によって違うが、おおむね6月下旬から7月上旬に夏建具へ替わり、9月の中旬から下旬に元へ戻す。気候の変動で前後する年もあり、各宿の公式サイトで案内されることが多い。

Q. 夏建具を見られる宿はほかにもありますか?

A. 京都の老舗旅館の多くで残っている。本稿で触れた俵屋・柊家のほか、麸屋町通周辺、祇園・東山の数寄屋宿、上京区の町家宿などで見られる。金沢の主計町・東山ひがし茶屋街の茶屋建築にも同様の作法がある。

Q. 葦戸と簾戸はどう違うのですか?

A. 素材が違う。葦戸は琵琶湖周辺で刈られる葦を、簾戸は竹を細く割って編んだもの。籐を使った籐戸もある。いずれも風と光を通し、視線を緩く遮る役割は共通している。

Q. 予約のタイミングは?

A. 京都の老舗旅館は半年前から予約が埋まる例が多い。夏建具の時期(7月、9月)は梅雨と台風シーズンの狭間で旅程が組みやすく、特に9月中旬以降は涼しさと建具入れ替え直前の風情が重なるため、編集部が推す時期である。

本記事の参考情報

Wikipedia: 建具 — 建具の歴史と分類
文化遺産オンライン: 俵屋旅館 — 数寄屋造り旅館建築の記録
京都観光オフィシャルサイト — 季節の宿情報

編集部から

建具を季節で替えるという作法は、効率の観点からは無駄が多い。襖を蔵から出して立て、また外して仕舞う。それを春と秋に二度、毎年。しかしその無駄こそが、宿という建築を季節と接続する装置になっている。次に書きたいのは、冬建具に戻る秋の所作。襖が戻り、障子が立ち、空気の通り道が閉じる瞬間に、宿はもう一度別の表情を見せる。