壁は、構造でも装飾でもなく、その建物が依拠する時間の長さそのものである。日本の高級宿の壁面に残る左官仕上げを、建築の言葉で読み直してみる。
京都の俵屋旅館、柊家、伊豆修善寺のあさば。三軒に共通するのは、壁の仕上げが「内装」ではなく「建物の構成要素」として扱われている点である。大津磨き、聚楽壁、漆喰、土佐漆喰、版築 — それぞれの技法は発祥の土地と、扱える職人の数を持ち、現代ではその両方が極端に細っている。本稿では、これらの技法を建築史的な距離から眺め、宿という器に残る具体的な施工面積と、職人の手の量を、なるべく数字で示しておきたい。
大津磨きという、ほとんど消えかかった技法
大津磨きは、滋賀県大津市の左官集団の手で江戸後期に体系化された技法である。消石灰、色土、海藻糊(角又)、麻苆を一定の比率で練り、塗り重ねたあと、磨石(とぎいし)と鏝で繰り返し磨いて鏡面に仕上げる。光が反射する壁、というよりも、光が壁の内部に潜んでいるように見える質感を生む。
業界に残る目安では、一畳分(約1.6㎡)の大津磨きを仕上げるのに、左官三人で三日かかる。塗り重ねの工程は通常七層から十一層、磨きの工程はその後さらに二日。職人一人が一日に扱えるのが0.3㎡前後とすれば、十畳の客室四面(壁面積およそ40㎡)を仕上げるには、延べ百三十人日を要する。京都の左官、佐藤ひさし(佐藤左官店)や、奈良の岡修一の名が、戦後の大津磨き伝承の系譜にしばしば挙がる。

京都中京区麸屋町通、創業1709年とされる俵屋旅館には、改装のたびに大津磨きが部分的に補修されてきた客室がある。十八室、客室坪数は十二坪から二十坪程度まで幅がある。壁面の一部にしか使われていないが、鏡面に映る障子の桟が、わずかに歪んで揺らいで見えるのは、壁の表面が完全な平面ではなく、磨きの圧力の癖が層として残っているからである。
聚楽壁、京都という土地に縛られた仕上げ
聚楽壁は、豊臣秀吉が築いた聚楽第(1587年完成、1595年取り壊し)跡地周辺で採取される聚楽土を使った、土物の塗り仕上げをいう。鉄分を含んだ茶褐色の土が原料で、粒子径が不均一なため、壁面が微細な凹凸を持ち、室内に入る光を拡散する。茶室の壁としては千利休以降の標準であり、京都の数寄屋建築の語彙に深く組み込まれている。
現在、純粋な聚楽土の採取は西陣の限定的な土取場で続いているが、産出量は年間で数トン程度と言われ、それでさえ近年は減少傾向にある。代用土として、京都市山科区の山科土や、丹波の朱色土が使われることが増えた。中塗りに薄藁苆、上塗りに繊細な麻苆を入れ、鏝で軽く押さえて仕上げる。一㎡あたりの施工に必要な土はおよそ4〜5kg、左官の作業時間は0.7〜0.9人日。

1818年(文政元年)創業の柊家は、俵屋から麸屋町通を北へ歩いて数分の場所にある。鉄分を含んだ茶褐色の壁は、夕方西からの斜光が入ると、色温度が低い方向にわずかに沈み込む。「壁が呼吸する」と昔の左官が言ったのは、おそらく粒子表面が湿度を吸放する物理を、感覚として知っていたからである。
柊家の聚楽壁の補修を長く担当してきたのは、京都市左京区の中村左官店の系譜だと聞く。技法というよりは、土の入手経路、苆の長さの選定、鏝の押さえ加減を、京都という地縁の中でしか保存できないという点が、聚楽壁の特殊さである。
漆喰、土佐漆喰、版築 — 用途で分かれる仕上げ
漆喰(しっくい)は消石灰を主材とする白色仕上げで、防火・防湿の機能性が起源にある。江戸期、町屋の蔵や寺院の外壁に多用された。施工の負荷は技法のなかでは比較的軽く、一㎡あたり0.4〜0.5人日。表面の白さは石灰の純度に依存するため、上質な仕上げほど石灰の選別と練り時間に手間がかかる。
土佐漆喰は、高知県を発祥とする藁発酵を加えた淡黄白色の仕上げで、江戸後期の高知の左官集団の手で確立された。藁を石灰に混ぜて二〜三ヶ月発酵させてから使うため、強度と耐候性が通常の漆喰を大きく上回る。土佐の倉や城郭の外壁に多く残っているのはそのためで、屋内仕上げに使うには色味の独特さがあり、宿建築では離れの外壁や、坪庭に面する壁面に限定的に使われる傾向がある。
版築(はんちく)は、土を木枠(堰板)の中に層状に詰め、棒で叩き締めて壁を造る古い工法である。古代中国を起源とし、朝鮮半島を経て日本に伝わった。木造軸組とは別系統の構法であり、壁が構造としても機能しうる。現代の宿建築では、客室の腰壁や、離れと母屋の境となる仕切り壁に、表現として導入される例がある。一層約20cmを叩き締めるのに左官一人で半日、層の積み重ねが視覚的に残るのが特徴である。

静岡県伊豆市修善寺のあさばは、室町期の1484年に修禅寺の宿坊として始まったとされる旅館である。十七室、現在の建物は明治から昭和にかけて段階的に改修されてきた。庭園内に明治後期に東京から移築された能舞台「月桂殿」を持ち、敷地全体が一種の数寄屋的構成を取っている。客室は十二畳から十八畳、坪数にして九坪から十三坪。
修善寺の湿度の高さに耐えるためで、装飾というより建材としての選択である。内装側は、聚楽系に近い土物の中塗りで、京都の高級旅館とは別系統の系譜が静岡の山あいに残っているのが分かる。
左官の手は、どう数えればよいか
建築写真や紹介文では、左官仕上げの壁はしばしば「素材感のある」「温かみのある」と形容される。だがそうした形容は、壁の表側の感覚だけを語っていて、壁の裏側にある人と時間の量を覆い隠してしまう。一㎡を仕上げるのに何人日、何時間、何kgの土と苆が要るのか。その数字を介してはじめて、壁は素材ではなく工程の堆積物として見えてくる。
俵屋の床脇の3.2㎡の大津磨きが、補修を入れて延べ十数人日。柊家の梅の間の聚楽壁32㎡が、新規仕上げなら二十数人日。あさばの能舞台背後の版築4㎡が、層を重ねるのに十人日前後。これらは、宿の建物全体からすれば微小な面積でしかない。だが面積を時間に換算したとき、客室一室の宿泊料金がどの程度の人の手の量を含んでいるのかが、ようやく姿を現す。
左官の人口は1985年に約42万人、2020年には約7万人にまで減った(国勢調査・職業大分類)。技能の保存とは、技法の図解を残すことではなく、その技法で食べていける需要を維持することである。高級宿は、その需要の最後の集積地のひとつとして、結果的に左官の系譜の一部を支えてきた。三軒の壁の数字を並べてみてはじめて、宿という器が建築史の中でどういう位置にいるのか、輪郭が見えてくる。
本稿の参考情報
・文化庁 · 文化財データベース — 大津磨き・聚楽壁を含む左官技法の選定保存技術指定
・Wikipedia: 聚楽第 — 聚楽土の採取地の歴史的背景
・総務省統計局 · 国勢調査 — 左官従事者数の長期推移