湯に浸かるためでなく、口に含むために設えられた湯口がある。許可を得た源泉だけに認められた飲泉場という小建築は、浴場とはまったく別の論理で寸法が決まる。柄杓の柄の長さ、陶の受けの深さ、注ぎ口の高さ。どれも肌に触れるためではなく、唇へ運ぶ所作のために測られている。胃腸泉として知られた泉質の歴史を背負いながら、飲むための湯口がどう意匠化されてきたか。浴槽の手前に置かれた、もうひとつの湯の装置を3軒から読む。
※ 目安価格は公開販売価格の集計に基づく参考値で、実際の予約料金とは異なります。1泊2名利用時の1室あたり料金(税込)です。Media Picks Score は公開レビューデータを集計し、立地・建築・設えの編集評価を加えた独自指標です。
飲泉という、もうひとつの湯の使い方
温泉を「飲む」という行為には、浴びることとは別の許可が要る。源泉が体内に入る以上、各都道府県の許可を得た飲泉場でしか認められない。だからこそ飲泉場は数が限られ、設える宿は自ずと泉質の歴史を引き受けることになる。胃腸に効くとされた炭酸泉、含鉄泉、硫酸塩泉、放射能泉。湯治の系譜のなかで「飲むこと」が処方の一部だった土地に、飲泉場は残ってきた。
注目すべきは、その湯口の寸法が浴場とは異なる論理で決まる点だ。浸かる湯は腰や肩の高さで設計されるが、飲む湯は口元へ運ぶ動作で測られる。陶の受け皿、竹や木の柄杓、立ったまま屈まずに口に運べる注ぎ口の高さ。建築としては小さな装置だが、所作を規定する寸法という意味では、客室の床の間にも劣らない設計の対象である。以下の3軒は、その小さな湯口を建築のなかにきちんと位置づけている。
木屋旅館 — 鳥取・三朝温泉
明治元年創業、足元から湧く自噴泉を持つ登録有形文化財の木造旅館。飲む湯と浸かる湯が同じ建物に同居する。
Media Picks Score: 86 / 100 14室、登録有形文化財の木造旅館。

三朝温泉の河畔に建つ木屋旅館は、明治元年の創業から増築を重ね、木造2階建て一部3階という複雑な外観をつくり上げた。三朝はラジウム泉として知られ、飲むことが湯治の作法の一部だった土地である。館内には足元からフツフツと湧く自噴泉があり、その源泉は飲泉にも供される。浸かる湯と飲む湯が、同じ自家源泉で同じ建物のなかに同居している。黒漆喰と簓子下見板(ささらこしたみいた)の壁、増築の継ぎ目が露わになった廊下。飲泉の所作が、文化財建築の身体寸法のなかにそのまま組み込まれている一軒である。
具体情報
- 所在: 鳥取県東伯郡三朝町・三朝温泉中心部の三徳川河畔
- 客室数: 14室(木造2階建て一部3階)
- 泉質: 含放射能泉(ラジウム泉)・自家源泉、自噴泉あり
- 建築: 国登録有形文化財、明治元年(1868)創業
- 目安価格: ¥48,000–¥59,000 / 泊(2名1室・通常期)
湯之島館 — 岐阜・下呂温泉
昭和6年創業、約一万坪の斜面に建つ数寄屋。和洋折衷の本館と、飲める湯を持つ下呂の名泉。
Media Picks Score: 92 / 100 67室、登録有形文化財の数寄屋旅館。

湯ヶ峰の中腹、下呂富士を望む約一万坪の斜面に建つ湯之島館は、昭和6年の創業。玄関棟・廊下・木造三階建ての宿泊棟が国の登録有形文化財に指定されている。本館は和洋折衷の意匠で、初期昭和のゆらぎを残すガラスや手焼きの瓦が当時のまま残る。下呂の湯は無色透明の柔らかな泉質で、飲める源泉としての歴史を持つ。重層する入母屋屋根と黒漆喰の壁が迎える玄関から、飲泉のための湯口までを一続きの建築として歩けるのが、この宿の懐の深さである。湯口は、博物館のように保存された館内の所作のひとつとして据えられている。
具体情報
- 所在: 岐阜県下呂市・湯ヶ峰中腹、約一万坪の敷地
- 客室数: 67室(木造三階建ての宿泊棟ほか)
- 泉質: アルカリ性単純温泉、無色透明(自家源泉)
- 建築: 国登録有形文化財(2010年登録)、昭和6年(1931)創業
- 目安価格: ¥76,000–¥103,000 / 泊(2名1室・通常期)
積善館 本館 — 群馬・四万温泉
元禄7年創業。大正建築「元禄の湯」の隣に飲泉所を構える、胃腸の名湯の本拠。
Media Picks Score: 93 / 100 22室、群馬県指定重要文化財の本館建築。

四万温泉は胃腸の名湯として知られ、飲泉と入浴の双方で効能をうたってきた土地である。元禄7年に開業した積善館の本館は、現存する日本最古級の湯宿建築のひとつで、群馬県の重要文化財に指定されている。象徴は昭和5年に建てられた浴室「元禄の湯」。アーチ窓から自然光が落ち、五つの石造りの湯船が床から湧く湯を湛える、脱衣と浴室が一体になった大正モダンの空間だ。その隣に飲泉所が据えられている。飲む湯と浸かる湯を、ひとつの建築のなかで隣り合わせに置いたこの配置こそ、四万の湯治文化が建築に翻訳された姿といえる。赤い慶雲橋を渡って迎える本館の佇まいは、3軒のなかでも飲泉場の意匠を最も明快に読ませる一軒である。
具体情報
- 所在: 群馬県吾妻郡中之条町・四万温泉、慶雲橋のたもと
- 客室数: 22室(本館・群馬県指定重要文化財)
- 泉質: ナトリウム・カルシウム硫酸塩・塩化物泉(飲泉許可あり)
- 建築: 元禄7年(1694)創業、「元禄の湯」は昭和5年(1930)建築
- 目安価格: ¥31,000–¥106,000 / 泊(2名1室・通常期)
飲泉場という小建築を、どう読むか
3軒に通底するのは、飲泉場が「効能の付帯設備」ではなく、建築の所作を規定する装置として扱われている点だ。三朝の自噴泉、下呂の柔らかな名泉、四万の硫酸塩泉。泉質の系譜がそれぞれ異なるように、湯口の据え方もまた異なる。だが共通して、口へ運ぶための寸法という設計対象がそこにある。浴槽の手前で立ち止まり、陶の受けに湯を満たして含む——その数十秒のための小さな建築を、登録有形文化財の館内に持つことの贅沢を、3軒は静かに示している。梅雨の湯治という、湯にゆっくり身を預ける季節に読み返したいテーマである。
よくある質問
Q. 飲泉はどの宿でもできますか?
A. いいえ。飲泉は源泉が体内に入るため、都道府県の許可を得た源泉と飲泉場でのみ認められます。本稿の3軒はいずれも飲泉に供される設えを持つ宿です。飲み方や量の目安は各館の掲示に従うのが基本です。
Q. 飲泉場のある宿は予約が取りにくいですか?
A. 登録有形文化財級の宿は客室数が10〜20室台と少なく、土曜・連休は早く埋まる傾向があります。梅雨どきや平日は比較的静かに過ごせる時期で、編集部が湯治目的で推す時間帯です。
Q. 飲泉と入浴の両方を一度に楽しめますか?
A. 3軒とも入浴設備と飲泉の設えが同じ建物・同じ源泉系統にあり、浸かる湯と飲む湯を続けて体験できます。とくに積善館は「元禄の湯」の隣に飲泉所が据えられ、両者の距離が近いことで知られます。
Q. アクセスはどうなっていますか?
A. 木屋旅館はJR三朝温泉最寄りの倉吉駅からバス、湯之島館はJR下呂駅から送迎圏、積善館は中之条駅からバスで四万温泉へ向かいます。いずれも温泉街の中心に建ち、徒歩での回遊に向きます。
本記事の参考情報
・日本遺産ポータルサイト(文化庁): 木屋旅館(三朝温泉) — 建築・文化財の背景
・Wikipedia: 三朝温泉 — 泉質・歴史の背景
・Wikipedia: 四万温泉 — 胃腸の名湯としての来歴
・Wikipedia: 飲泉 — 飲泉という温泉文化の概説
編集部から
飲泉場は、温泉という土地の記憶を建築に翻訳した小さな装置である。浸かるための湯が空間を支配しがちな宿のなかで、口に含むためだけに測られた湯口は、設計の意志がもっとも繊細に表れる場所だ。泉質の歴史を背負い、文化財の身体寸法に組み込まれた飲む湯を、梅雨の静かな時期に訪ねてみる。湯屋建築そのものを目的に旅するなら、次はどの土地の湯口を読み解くべきだろうか。