湯に浸かるためではなく、口に含むために設えられた湯口がある。飲泉場と呼ばれるその小さな装置を、館内の一角や浴場の手前に据える宿を、全国から三軒選んだ。柄杓の柄の長さ、陶の受けの深さ、注ぎ口までの高さ。浴槽が身体を沈めるための寸法で設計されるのに対し、飲泉場は湯を口へ運ぶ所作のために測られている。同じ源泉を扱いながら、そこには別の論理の建築がある。

※ 目安価格は公開販売価格の集計に基づく参考値で、実際の予約料金とは異なります。1泊2名利用時の1室あたり料金(税込)です。

飲むための湯口という、もうひとつの温泉建築

温泉を飲むという行為は、浴びることより古い作法として各地に残る。ただし源泉を体内に取り込む以上、飲用には保健所の許可が要る。許可を得た宿だけが、浴槽とは別に「飲むための湯口」を構えることができる。その設えは、浴場の豪奢さとは無縁の場所で静かに完結していることが多い。帳場の脇、廊下の突き当たり、湯屋へ向かう通路の一隅。人が立ち止まり、柄杓を手に取り、湯を口へ運ぶ。その一連の動作に合わせて、受けの高さと注ぎ口の角度が決められている。浴槽の設計者が身体の沈み込みを計算するのに対し、飲泉場を設える者は、口までの距離と一口の量を測っている。ここでは、その飲泉場を建築として読める三軒を紹介する。いずれも泉質の来歴が、湯口の意匠を規定している点で共通する。

炭酸を逃がさないための寸法 — 大分・長湯温泉 大丸旅館

大正6年創業。世界屈指の炭酸泉を陶碗で供し、外湯に藤森照信設計のラムネ温泉館を持つ一軒。

Media Picks Score: 93 / 100  15室、温泉旅館。

目安価格 ¥42,000–¥56,000 / 泊 (2名1室・通常期)


長湯温泉 大丸旅館 — 大分県竹田市 · 大正6年創業、世界屈指の炭酸泉を飲泉に供する老舗宿の外観
PHOTO: 長湯温泉 大丸旅館 — 公式サイトを見る →

大分・竹田市の長湯温泉は、炭酸ガスを高濃度で含む源泉で知られる。大正6年(1917年)創業の大丸旅館は、その泉質を飲泉に供する宿として長く続いてきた。炭酸泉は温度が上がるとガスが抜ける。だから湯船はぬる湯に保たれ、飲むための湯も、注いだそばから口へ運ぶ短い動線で扱われる。陶の碗で受け、間を置かずに含む。器と所作が、逃げやすい炭酸を留めるための寸法として選ばれている。この宿が外湯として持つラムネ温泉館は、建築史家の藤森照信が設計したことで知られ、黒と白の縞の外壁と栗の木肌が、炭酸の泡立つ源泉を建築の主題へと引き上げた。飲むための湯と、浸かるための湯。その両方が、同じ源泉の性質から形を与えられている点が、この一軒を飲泉建築として際立たせている。集約された宿泊者の評価でも、ぬる湯に身を置く時間の長さと、炭酸泉そのものへの関心の高さが繰り返し確認できる。近隣に湯治文化が根を張る土地柄も、この宿の輪郭を補強している。

大正5年の洋風浴場に据えられた湯口 — 群馬・四万温泉 積善館

元禄創業。大正5年築「元禄の湯」の洋風浴場に、飲むための湯口を組み込んだ三百年余の宿。

Media Picks Score: 91 / 100  17室(佳松亭・山荘)、温泉旅館。

目安価格 ¥79,000–¥110,000 / 泊 (2名1室・通常期)


四万温泉 積善館 — 群馬県中之条町 · 元禄創業、赤い慶雲橋と本館の木造建築
PHOTO: 四万温泉 積善館 — 公式サイトを見る →

四万温泉は、宮城・峩々温泉、大分・湯平温泉とともに「日本三大胃腸病の名湯」に数えられてきた。群馬・中之条町の積善館は元禄年間の創業を伝える宿で、赤い橋を渡って本館へ至る木造の連なりが、この土地の景観を象徴している。飲泉の湯口は、大正5年(1916年)に建てられた浴場「元禄の湯」に組み込まれている。アーチ窓が並ぶ洋風モダンの空間に、石造りの湯船が五つ据えられ、その浴場の設えの中に飲むための湯口が置かれる。ナトリウム・カルシウム塩化物硫酸塩泉という泉質は、温めて飲めば胃腸へ、冷やせば別の作用へと、飲み方によって効能が読み替えられてきた。湯口が浴場建築の内側に取り込まれているのは、この宿にとって飲泉が入浴と地続きの湯治作法だったことの証しである。大正の洋風意匠と元禄以来の湯治文化が、ひとつの浴場で重なる。集約された評価では、建築そのものへの関心と、湯めぐりの体験を軸に語られる傾向が見て取れる。

帳場の脇に置かれた飲泉場 — 宮城・蔵王 峩々温泉

標高850m、開湯150年。帳場の脇に飲泉場を据え、竹筒のかけ湯を作法として残す蔵王の一軒。

Media Picks Score: 89 / 100  17室、温泉旅館。


峩々温泉 — 宮城県蔵王町 · 標高850mの渓谷に建つ開湯150年の一軒、紅葉期の空撮
PHOTO: 峩々温泉 — 公式サイトを見る →

宮城・蔵王、標高850mの渓谷に建つ峩々温泉は、開湯150年を数え、現在六代目が営む一軒である。四万と同じく三大胃腸病の名湯の系譜に連なり、飲泉場は帳場のすぐ脇に据えられている。豪奢な設えではない。湯を注ぎ、柄杓で受け、口へ運ぶ。その動作だけが成立するように、必要な高さと受けが用意されている。この宿には、飲泉と並んでもうひとつの独特な湯の作法が残る。湯船の縁に木枕を置いて寝そべり、竹の筒で胃や腸のあたりへ一杯ずつ湯を掛けていく「かけ湯」で、伝統的には百杯続けるという。飲む、掛ける、浸かる。源泉を身体に取り込む三つの経路が、それぞれの装置と作法をもって共存している。ナトリウム-炭酸水素塩泉と硫酸塩泉を併せ持つ湯質が、この使い分けを支えてきた。人里から離れた立地ゆえに、宿の内側で湯と向き合う時間が長くなる。集約された評価でも、静けさと湯治色の濃さが繰り返し語られている。

三軒に通底するもの

飲泉場は、宿の格や規模を誇示する装置ではない。むしろ人目につかない場所に、静かに置かれることが多い。大丸旅館では炭酸を逃がさない短い動線として、積善館では大正の浴場建築の内側に、峩々温泉では帳場脇の日常的な一隅に。同じ「飲むための湯口」でありながら、据えられる場所も、器も、寸法も、それぞれの泉質と湯治文化に規定されている。浴槽の手前で立ち止まり、湯を口へ運ぶ。その所作のために測られた小さな建築を読むことは、温泉という土地の資源が、どう身体へ手渡されてきたかを読むことでもある。梅雨の湯治の季節に、浴場ではなくその手前の湯口へ目を向けてみたい。あなたにとって、湯は浸かるものか、それとも含むものか。

よくある質問

Q. 飲泉はどの宿でもできますか?

A. いいえ。源泉を体内に取り込む飲泉には保健所の許可が必要で、許可を得た源泉を持つ宿だけが飲泉場を設けられます。本記事の三軒はいずれも飲泉可の源泉を備えています。飲用の可否や量は各宿の掲示に従ってください。

Q. 飲泉に向くとされる泉質は?

A. 炭酸水素塩泉、硫酸塩泉、含鉄泉、塩化物泉などが飲用の対象とされてきました。とりわけ胃腸への作用で語られる泉質が多く、四万温泉や峩々温泉は「日本三大胃腸病の名湯」の系譜に位置づけられます。

Q. 訪れるのに向く時季は?

A. 湯治の文脈では、梅雨から初夏にかけての静かな時季が編集部の推す期間です。峩々温泉のある蔵王は紅葉期の渓谷美も知られますが、混雑を避けて湯と向き合うなら、端境の時季に分があります。

Q. 三軒へのアクセスは?

A. 大丸旅館は大分・竹田市の長湯温泉、積善館は群馬・中之条町の四万温泉、峩々温泉は宮城・蔵王の渓谷にあります。いずれも主要駅からバスや車での移動が基本で、峩々温泉はとりわけ人里から離れた立地です。詳細は各公式サイトで確認できます。

本記事の参考情報

中之条町観光協会(四万温泉) — 四万温泉エリアの観光情報
蔵王町観光物産協会 — 蔵王・峩々温泉エリアの情報
Wikipedia: 飲泉 — 飲泉の定義と泉質の背景

編集部から

湯口という視点で宿を選ぶと、浴場の広さや露天の眺めとは異なる序列が立ち上がる。炭酸を逃がさない寸法、大正の浴場に組み込まれた飲用の位置、帳場脇の日常的な設え。同じ源泉を扱いながら、飲むための建築はそれぞれの土地の論理で形づくられていた。温泉建築というテーマは、浴槽の意匠に留まらない。その手前にある小さな装置にこそ、土地が湯とどう付き合ってきたかが刻まれている。次はどの湯口の前に立ち、一口を含んでみたいだろうか。

次に読むなら