夏に火を絶やさない宿がある。茶事の炭点前、夕餉の炙り、湯屋裏の焜炉(こんろ)。空調の効いた廊下を抜けて広間に入ると、床に切られた炉に小さな赤が灯っている。本稿は冬の囲炉裏ではなく、晩夏から初秋にかけての「名残の火」を扱う宿を、編集部が五軒選んで読む。火を熾(おこ)す当主と仲居の手、その火を受ける建具と室礼(しつらい)、そして備長炭・佐倉炭・池田炭という固有名詞を辿る。料理長賞歴のある一泊五万円超の中小規模旅館に絞った。

# 宿 所在 Score 室数 目安価格 火の所作
1 間人温泉 炭平 京都・京丹後 93 16 ¥116〜¥178k 備長炭で間人ガニを炙る、屋号の出自
2 離れ家 石田屋 静岡・河津七滝 91 11 ¥34〜¥64k 離れの数寄屋に切炉を設ける旧家
3 山ばな 平八茶屋 京都・洛北山端 90 6 ¥105〜¥136k 1576年創業、若狭街道の囲炉裏鯉
4 松露亭 京都・天橋立 89 11 ¥120〜¥190k 平屋数寄屋の茶室、池田炭の炭点前
5 懐石宿 潮里 兵庫・室津港 87 12 ¥46〜¥71k 炭火懐石、瀬戸内地魚の炙り

※ 目安価格は公開販売価格の集計に基づく参考値で、実際の予約料金とは異なります。1泊2名利用時の1室あたり料金(税込)です。

1. 屋号としての炭 — 間人(たいざ)・炭平

間人温泉 炭平 — 京都府京丹後市

屋号が「炭」を冠する宿は珍しい。明治元年創業、丹後半島の漁村に十六室。

Media Picks Score: 93 / 100  16室、海辺の数寄屋普請の温泉旅館。

目安価格 ¥116,000〜¥178,000 / 泊 (2名1室・通常期)


間人温泉 炭平 — 京丹後・間人漁港 · 明治元年創業の海辺の数寄屋旅館
PHOTO: 間人温泉 炭平 — 公式サイトを見る →

屋号が「炭」を冠する宿は、全国でも数えるほどしかない。炭平は明治元年(1868)、丹後半島の小さな漁村に薪炭商として起こり、のちに旅館業へ転じた。屋号の出自そのものが、宿の所作を規定している。冬の間人(たいざ)ガニで知られるが、本稿が注目するのは初秋の炙り。鰆(さわら)、鱸(すずき)、鯵(あじ)、丹後沖の魚を、紀州備長炭でじっくりと炙る。火床は炉ではなく台所裏の専用焜炉だが、最終仕上げを部屋付の小さな炭火で行う設(しつら)えが残っている。料理長は当主の系譜を継ぐ三代目、丹後の漁師町の調理思想がそのまま炭の選定に出る。

火と空間の関係 — 数寄屋の炭斗(すみとり)

炭平の客室は全室オーシャンビューで、夕刻の暗がりに窓辺の小さな赤が灯る。これは「火鉢」ではなく「炭斗」と呼ぶ。茶人が炭を入れる籠と同じ語で、宿では仕上げ用の小道具として位置づけられる。間人沖の凪いだ海と、火の気配。建築の意匠としては控えめだが、夏に火を残す宿としての思想がここに集約される。客室十六室の規模ゆえ、料理長は一席ごとに炭の量と熾し方を変えられる。

2. 数寄屋の離れに切炉を設ける — 河津七滝・石田屋

離れ家 石田屋 — 静岡県賀茂郡河津町

明治六年創業。庭内に独立した離れ十一棟、各棟に専用露天と小さな炉。

Media Picks Score: 91 / 100  11室、すべて離れ造りの旅館。

目安価格 ¥34,000〜¥64,000 / 泊 (2名1室・通常期)


離れ家 石田屋 — 河津・谷津温泉 · 明治六年創業の離れ普請旅館
PHOTO: 離れ家 石田屋 — 公式サイトを見る →

河津谷津温泉の高台、二月の桜と五月の花菖蒲で知られる石田屋は、明治六年(1873)創業の老舗。十一の離れすべてが庭園内に独立して建ち、各棟に専用の露天風呂を備える。注目すべきは離れの一部に切炉(きりろ)が残されている点だ。切炉とは床に四角く切られた小さな炉で、火鉢よりも侘びた茶事の様式を伴う。河津桜の散ったあと、初夏の夜に主菓子と薄茶を出す設えで、夏は炉を閉じず、わずかに炭を残して香炉的に使う。建具は杉と桧の真壁造り、左官は漆喰押え。炭は紀州備長を中心に、地元伊豆の炭焼き集落から納める黒炭を組み合わせる。

夏の火と空調 — 名残の作法

近代旅館の課題は、空調と火の同居である。石田屋の離れは天井が高く梁が露出した造りで、エアコンの吹出口を壁の上部に隠す。炉の上方は煙突や換気を取らず、室内に炭の香りがわずかに残るよう設計される。これが「名残の火」の意匠で、夏には火を絶やさない宿の精神的支柱となる。客室十一棟、河津七滝の谷あいに点在する庭園、料理は伊豆山海の懐石で、料理長は炭火の炙りに執着する人物として地元に知られる。

3. 鯖街道の囲炉裏 — 洛北・山ばな平八茶屋

山ばな 平八茶屋 — 京都市左京区山端

天正年間(1576)創業、若狭街道筋。四百四十年の囲炉裏で鯉と麦飯とろろを供する。

Media Picks Score: 90 / 100  6室、京料理の老舗料亭兼旅館。

目安価格 ¥105,000〜¥136,000 / 泊 (2名1室・通常期)


山ばな 平八茶屋 — 京都・洛北山端 · 天正年間創業の若狭街道筋茶屋
PHOTO: 山ばな 平八茶屋 — 公式サイトを見る →

若狭街道(鯖街道)が京都に入る最後の宿場、洛北山端(やまばな)に山ばな平八茶屋がある。創業は天正年間(1573-92)、初代は若狭から来た商人で、街道茶屋として始まった。明治の文豪では幸田露伴・夏目漱石、近代では北大路魯山人・川端康成、令和に至るまで作家・文人の常宿として知られる。客室はわずか六室。本館に切られた囲炉裏では、現在も鯉のあらい(洗い)と、名物の麦飯とろろ汁が炭火で温められる。炭は丹波池田炭、茶の湯で使われる菊炭の系譜である。

夏の火 — 鱧と鮎の炙り

夏の平八茶屋では、囲炉裏に鱧(はも)の骨切りと鮎の塩焼きが焼かれる。京都の鱧は六月末から七月、祇園祭の頃が旬。鮎は七月から九月。料理人は炭の真上ではなく、灰を被せた遠火でじりじりと焼く。これが「名残の火」の真骨頂で、夏でも火を絶やさない理由が皮一枚の焼き加減にある。建築は江戸後期の数寄屋造り、屋号の通り街道沿いに茶屋風の構えを残す。叡山電鉄修学院駅から徒歩五分、京都市内とは思えない山あいの空気が残る。

4. 平屋数寄屋の炭点前 — 天橋立・松露亭

松露亭 — 京都府宮津市・天橋立

日本三景・天橋立の松林に建つ全棟平屋の数寄屋。茶室を備え、池田炭で炭点前を行う。

Media Picks Score: 89 / 100  11室、文珠荘グループの平屋数寄屋旅館。

目安価格 ¥120,000〜¥190,000 / 泊 (2名1室・通常期)


松露亭 — 天橋立・文殊 · 平屋数寄屋の茶室併設旅館
PHOTO: 松露亭 — 公式サイトを見る →

日本三景・天橋立の付け根、文殊の松林に建つ松露亭は全棟平屋の数寄屋造り。文珠荘グループの離れとして昭和に建てられ、近年改修を経た。十一の客室はすべて庭園と松林に面し、茶室を備える棟が複数ある。茶事の炭点前で使うのは、兵庫県猪名川流域の池田炭(菊炭)。クヌギを伝統技法で焼いた炭で、断面が菊の花弁状に割れ、茶室の炭斗に映える。夏の名残の茶事では、風炉(ふろ)を残した状態で火を細く保つ「中置(なかおき)」の作法が用いられる。これは九月から十月の限られた時期に限定される。

建築と火の関係 — 平屋の利点

平屋数寄屋の利点は、屋根勾配を活かした自然換気である。炭の煙が天井から梁を伝って棟へ抜け、室内に滞留しない。同時に空調設備は床下と長押(なげし)裏に隠され、視界から排除される。客室の数寄屋普請は杉柾目の柱、聚楽壁、檜柾目の天井。建築家は明示されないが、京都・北山の数寄屋大工の系譜を継ぐ仕事と思われる。天橋立を望む露天風呂と、室内の茶室、二つの「水」と「火」の対比が宿の核。

5. 瀬戸内の炭火懐石 — 室津港・潮里

懐石宿 潮里 — 兵庫県たつの市御津町

瀬戸内・室津港を望む十二室の懐石宿、地魚を備長炭で炙る。

Media Picks Score: 87 / 100  12室、瀬戸内海を望む懐石旅館。

目安価格 ¥46,000〜¥71,000 / 泊 (2名1室・通常期)


懐石宿 潮里 — 兵庫・室津港 · 瀬戸内地魚の炭火懐石宿
PHOTO: 懐石宿 潮里 — 公式サイトを見る →

赤穂と姫路の間、瀬戸内に面する古い港町・室津に潮里(しおり)は構える。室津は西国大名の参勤交代の要衝として栄え、江戸期には本陣が六軒並んだ。現在の宿は和×モダンの改修旅館だが、料理は本格の懐石。客室十二、すべて瀬戸内海を望む。料理長は地魚の扱いに長け、晩夏の鱧、初秋の鯛・甘鯛(ぐじ)、秋口の鰆(さわら)を、炭火で炙る。皿の上で火を入れる「焜炉(こんろ)膳」の供し方を残しているのが特徴的で、客は備長炭の小さな赤を眼前で受ける。

炭の供し方 — 個別焜炉という様式

潮里の所作で印象に残るのは、各客にひとつ小さな焜炉を置く設え。中央の囲炉裏で大勢が囲む様式とは逆に、各人が自分の手元で火を扱う。料理長が焼き上げを完了させた皿を、客が焜炉の上で温め直しながら食べ進める。これは茶懐石の「向付」の精神を懐石膳に翻案したもので、夏でも火を絶やさない理由が客との距離を縮めるためにある。瀬戸内の落ち着いた風景、和モダンの内装、地魚と炭。価格帯は本稿の中ではもっとも落ち着くが、所作の密度は同水準にある。

炭の固有名詞を読む — 備長炭・菊炭・佐倉炭

本稿で取り上げた五軒には、三種類の炭が登場する。一つ目は紀州備長炭。和歌山県南部のウバメガシを高温で焼いた白炭で、火持ちと火力に優れる。漁村系の宿(炭平・潮里)が選ぶのはこの炭が多い。二つ目は池田炭(菊炭)。兵庫県猪名川流域のクヌギから作られる黒炭で、茶の湯で珍重される。松露亭の茶事はこの炭。三つ目は佐倉炭。千葉県の佐倉藩産のナラ炭で、家庭用火鉢に使われた歴史を持つ。本稿の五軒には登場しないが、関東の旅館を語る上では避けて通れない名前である。火の文化は、産地・樹種・焼成温度の三軸で読まれる。

夏に火を絶やさないという思想

空調が標準化された現代の旅館で、なぜ夏に火を残すのか。料理面の理由は明らかだ。炭火の遠赤外線は皮一枚の焼き加減を生み、空調冷却された皿に温度を渡す媒介として機能する。だが本稿の関心はもう一段抽象的な層にある。火は時間を可視化する装置だ。電気の照明は瞬時に点灯するが、炭は熾(おこ)す時間、保つ時間、消える時間を持つ。客が宿に着いた時にすでに熾されている炭、夜に細くなる炭、朝の名残。これが「滞在の時制」を作る。本稿の五軒に共通するのは、火を演出ではなく時間として扱う思想である。八月下旬から十月、空気が乾き始める季節に、もう一度宿の火を見に行きたい。

よくある質問

Q. 夏でも本当に炭火を焚いているのか

A. 五軒すべて、夏季も炭火を焚いている。ただし冬の囲炉裏のように常時大火を保つ宿は少ない。茶事の炭点前(松露亭・平八茶屋)、料理仕上げの炙り(炭平・潮里)、香炉的に炉に残す形(石田屋)の三様で、所作と量は異なる。

Q. 炭の種類は宿で選べるのか

A. 通常は宿の選定に任せる。茶室併設の松露亭では、亭主に断れば池田炭(菊炭)の炭斗を見学できる場合がある。料理の炭は炭平・潮里とも備長炭を基本としており、種類変更は受け付けていない。

Q. 夏季にどの宿が最も「名残の火」を体感できるか

A. 編集部の所見では、平八茶屋の囲炉裏が八月下旬から九月の時期、もっとも繊細な火を残す。鱧の名残と鮎の盛り、二つの旬が重なる時期である。

Q. 室数の少ない宿は予約が取れるのか

A. 六室の平八茶屋、八〜十一室の石田屋・松露亭は、繁忙期(GW、夏休み、紅葉期)は三〜四ヶ月前の予約が必要。平日の九月下旬は比較的取りやすい。

Q. アクセスは

A. 炭平は京都丹後鉄道網野駅からタクシー約20分。石田屋は伊豆急河津駅からタクシー約15分。平八茶屋は叡山電鉄修学院駅徒歩5分。松露亭は京都丹後鉄道天橋立駅徒歩約10分。潮里はJR山陽本線網干駅からタクシー約20分。

本稿の参考情報

京都府観光連盟 — 京丹後・洛北・天橋立の観光基礎情報
Wikipedia: 備長炭 — 紀州備長炭の歴史と特性
Wikipedia: 池田炭(菊炭) — 茶の湯と猪名川の炭焼き

編集部から

火は最も原始的な要素のひとつでありながら、現代の数寄空間においては最も編集された存在でもある。本稿で扱った五軒は、所作・建築・料理・茶事の四つの層で炭を位置づけており、それぞれの宿に固有の「火の文法」がある。炭平の屋号、石田屋の切炉、平八茶屋の囲炉裏、松露亭の茶室、潮里の焜炉膳。次回は冬至前後の「迎え火」を扱う予定で、囲炉裏と火鉢が再び主役になる季節を読む。