階段は廊下より雄弁である。客が一日に何度か昇り降りする数段に、宿の意匠的な意志が最も濃く宿る。エレベーターを持たない低層の宿を、その垂直動線から読み直す。

※ 目安価格は公開販売価格の集計に基づく参考値で、実際の予約料金とは異なります。1泊2名利用時の1室あたり料金(税込)です。

エレベーターを持たない宿の階段

客室が二階にしかない宿は、いまどき贅沢である。階数を低く抑えるという判断は、エレベーターを持たないという判断と同義であり、そして階段が建築の主役になるという判断でもある。宿のロビーから客室まで、客は必ず数段を踏む。その数段が、宿の設計者が読者に対して仕掛けた最初の身体的な接触点になる。

素材を見ればおおよそのことは分かる。欅の一枚板を踏面に使う宿は、年月で艶が出る前提で組まれている。杉の柾目を選ぶ宿は、節を見せないという美学を継いでいる。御影石や鉄平石の段は、湿度の高い湯屋建築に多い。蹴上げの寸法も観察に値する。標準的な住宅の階段は蹴上げ190〜200ミリだが、宿の階段は170ミリ前後に抑えられていることが多い。一段が低くなると、昇るときの姿勢が前傾でなくなり、客は廊下を歩くのと同じ気持ちで階を移れる。

手すりの握りも、宿の年代を語る。1960年以前の建物は太い欅の丸棒、それ以降は細い金属棒へと移っていく。最近の改装宿は、手すりそのものを省略し、左官の壁にわずかな凹みだけを持たせる例もある。握りを意識させない設計は、客の身体と建築を直接結ぶための仕掛けである。

三軒の階段

1. 萬翠楼福住(箱根湯本)

国指定重要文化財の擬洋風二階建てが、階段を建築の中心に据える。1625年創業、現存の主屋は明治十年代。

Media Picks Score: 95 / 100  15室、木造重要文化財旅館。

目安価格 ¥66,000–¥90,000 / 泊 (2名1室・通常期)


萬翠楼福住 — 箱根湯本 · 1625年創業、国指定重要文化財の擬洋風木造二階建て旅館
PHOTO: 萬翠楼福住 — 公式サイトを見る →

主屋「金泉楼」「萬翠楼」は明治十年代の擬洋風木造二階建てで、2002年に旅館建築として初の国指定重要文化財となった。階段は土間から二階の客室へ抜ける一本で、欅の踏面に黒漆を塗り重ねている。蹴上げは現在の建築基準より低く、明治の人体寸法のまま残っている。手すりは欅の丸棒、踊り場の窓は一間の引き違いで、湯気のような薄い光が降りる。階段の上下で空気の質が変わる——その差を体感するために、客は一日に何度かそこを昇り降りする。文化財建築であることが目的化していない、生きた階段である。

2. arcana izu(伊豆・修善寺)

狩野川を見下ろす低層ヴィラ群を、外部の渡り階段が縫う。2006年開業のオーベルジュ。

Media Picks Score: 94 / 100  10室、低層ヴィラ型オーベルジュ。

目安価格 ¥145,000–¥200,000 / 泊 (2名1室・通常期)


arcana izu — 伊豆修善寺 · 狩野川沿いの低層ヴィラ群、2006年開業のオーベルジュ
PHOTO: arcana izu — 公式サイトを見る →

狩野川の段丘に張り付くように、客室棟・レストラン棟・スパ棟が階段でつながる。屋内の階段ではなく、屋外の渡り階段。これが館の動線設計上の中心であり、客は雨の日も傘を差して数段を移る。手すりは黒く塗装した鉄。建築は派手な造形をせず、勾配と素材で雄弁になる方を選んでいる。夜、ヴィラから食堂へ向かう数十段は、灯りを最小限にしている。狩野川の対岸の家明かりが視界の端に入る。階段が照明設計の主役を兼ねている、と言える稀有な例である。

3. 福住宿場町ホテル NIPPONIA(丹波篠山・福住)

江戸後期の庄屋屋敷を改装した宿場町ホテル。土間と座敷の段差そのものが宿の主題。

Media Picks Score: 93 / 100  7室、古民家分散型ホテル。


福住宿場町ホテル NIPPONIA — 丹波篠山・福住 · 重要伝統的建造物群保存地区の宿場町、江戸後期庄屋屋敷を改装
PHOTO: 福住宿場町ホテル NIPPONIA — 公式サイトを見る →

福住は西京街道の宿場で、2012年に重要伝統的建造物群保存地区に選定された集落である。NIPPONIAはその中の複数棟を客室として再生した。階段というよりも「段差」が主題で、土間から座敷へ上がる一段、座敷から離れへ抜ける二段、二階の蚕棚を改装した寝室へ向かう急な階段——客は宿場町の家屋構造をそのまま体験する。踏面は古い欅をそのまま継ぎ、欠けや黒ずみを残す。蹴上げは均一でない。段の高さの揺れが、建物の地味な歴史を語る。客は躓きそうになり、そのたびに自分の足元を見る。視線が下に向かう設計である。

階段は宿格の指標ではない

3軒の客室単価は ¥66,000 から ¥200,000 まで開きがある。が、階段の意匠的密度は価格と相関しない。文化財の擬洋風木造、現代の低層ヴィラ、宿場町の庄屋屋敷——それぞれに階段の主題は異なるが、いずれも宿のロビーから客室までを徒歩で結ぶことに価値を置いている点で同じである。エレベーターは便利だが、便利は退屈である。数段を昇る間に、客は宿の素材と寸法と光に触れる。その触れ方こそが、宿が客に提供する最初のもてなしであり、最後のもてなしでもある。

梅雨の前の数日、湿度を含んだ木の踏面は乾いた季節と異なる音を立てる。これを聴くために、低層の宿を選ぶ価値がある。

本稿で触れた宿

よくある質問

Q. 階段の昇降が難しい家族と一緒の旅程には向きませんか?

A. 3軒ともエレベーターを持たない低層宿であり、客室まで数段から十数段の階段を昇る必要がある。膝・腰に懸念がある客は、事前に各宿へ1階客室の有無を確認するのが妥当である。萬翠楼福住は別棟に低層客室があるが、空室は限られる。

Q. 建築写真撮影の許諾はどうなっていますか?

A. 共用部の撮影は3軒とも宿泊客には個人利用の範囲で許可されているが、商業利用・取材は事前申請が必要。階段や踊り場の窓を撮るときは、他客が映り込まないよう配慮するのが宿のルールである。

Q. 梅雨に泊まる利点は?

A. 木の踏面は湿度を含むと音が変わり、足裏の感触も柔らかくなる。本稿で扱った3軒はいずれも木造階段が主役の宿で、季節の湿度を音と感触で受け止める素地がある。観光地としての箱根・伊豆・丹波篠山は、梅雨期は比較的空いている。

Q. 階段意匠を観察するための事前準備は?

A. 各宿の公式サイトで建築年代・改装履歴を確認しておくと、現地で見える要素が増える。萬翠楼福住は重要文化財指定の経緯、arcana izuは設計事務所の理念、NIPPONIAは古民家再生プロジェクトの方針——それぞれの背景が、階段の解釈を変える。

本記事の参考情報

文化庁 国指定文化財等データベース — 萬翠楼福住の重要文化財指定情報
丹波篠山市公式観光サイト『ぐるり!丹波篠山』 — 福住宿場町の歴史と保存地区情報
箱根町観光協会 — 箱根湯本エリアの背景情報

編集部から

階段は、宿のあらゆる動線の中で最も雄弁な数メートルである。低層の宿を選ぶということは、便利と引き換えに、素材と寸法に触れる時間を買うということでもある。次稿では、階段の隣にある「踊り場」を扱う予定である。窓の高さ、椅子の有無、絵の有無——踊り場は宿が客に立ち止まることを許す場所である。

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