湿度一〇〇パーセントに近づく浴室で、壁に土を塗るという選択がある。タイルでも石でもなく、土。剥落と結露という二つの宿命を抱えながら、なぜいまも一部の宿は左官の手仕事に湯殿の壁を委ねるのか。本稿は、浴室の「垂直の壁」に絞り、聚楽壁・版築・大津磨きという三つの系統を、土と湿度の対話として読む。梅雨入りを前にした六月、土壁が最も呼吸する季節に、三軒の宿を手がかりに歩いてみたい。

※ 目安価格は公開販売価格の集計に基づく参考値で、実際の予約料金とは異なります。1泊2名利用時の1室あたり料金(税込)です。

土を、湯殿の壁に塗るということ

浴室は、建築のなかで最も過酷な部屋である。湯気は天井に上がり、壁を伝って結露し、夏は外気が、冬は湯気が、素材を昼夜膨張収縮させる。タイルや石が選ばれてきたのは、つまるところ水に強いからだ。ところが土は逆に、水を吸う。吸って、吐く。この「呼吸」こそが、左官職人が湯殿に土を持ち込む理由であり、同時に最大の難所でもある。

土壁が浴室で剥落するか否かは、結合材の配合で決まる。土そのものには粘りがない。そこに海藻を煮出した糊(角又・銀杏草)、藁すさ、消石灰、にがりといった素材を、土の性質に合わせて練り込む。湿気を吸わせつつ、吸いすぎて崩れさせない。その配合比は数値化された処方ではなく、産地の土ごと、職人ごとに最適解が異なる。だからこそ、湯殿の土壁は工業製品の対極にある。

聚楽壁 — 土の色をそのまま見せる

聚楽壁は、京都・聚楽第跡周辺で産した上質な土を用いた、土の地色をそのまま化粧仕上げとする技法を指す。糊と少量のすさで薄く塗り、上塗りの土の粒子と色をそのまま見せる。装飾を足さず、土という素材の純度で見せる引き算の美学が、数寄屋建築の床の間や茶室の壁を支えてきた。

あさば — 修善寺

五百年を超えて修善寺に続く数寄屋の宿。聚楽の土が、能舞台を望む湯殿の湿度と静かに対話する。

Media Picks Score: 94 / 100  17室、料理旅館。

目安価格 ¥273,000–¥391,000 / 泊 (2名1室・通常期)


あさば — 修善寺 · 1484年創業、能舞台を擁する数寄屋の老舗旅館
PHOTO: あさば — 公式サイトを見る →

一四八四年創業、修善寺の門前に発した宿は、明治期に東京から能舞台「月桂殿」を移築し、水面を隔てて能を観る稀有な空間を今に伝える。建物の各所に残る土壁は、装飾を抑えた聚楽系の仕上げで、湯殿の湿度のなかでも土の地色を静かに保つ。塗り重ねの薄さが、結露を表面で受け止めずに内部へ逃がす呼吸設計の要であり、五百年の蓄積がそれを裏づける。修善寺の谷の湿度と、土の壁。両者の均衡を、宿は更新し続けている。建築・庭・能という三つの時間軸が一つの湯に流れ込む、土壁を読むうえでの archetype と言える一軒である。

具体情報

  • 所在: 静岡県伊豆市修善寺(修善寺温泉)
  • 客室数: 17室
  • 建築の見どころ: 移築された能舞台「月桂殿」、聚楽系の土壁
  • 創業: 1484年
  • 湯: 源泉かけ流し、露天・貸切あり

大津磨き — 土を磨き上げて鏡面にする

同じ土を出発点としながら、聚楽壁とは正反対の方向へ向かうのが大津磨きである。消石灰と色土、すさを練り合わせた壁を、乾ききる前に鏝(こて)で何度も押さえ、磨き上げて鏡のような艶を出す。土でありながら水を弾く緻密な表面をつくるこの技法は、湯殿という水場と本来きわめて相性がよい。現代では、左官・久住章をはじめとする職人たちが、この古典技法を浴室空間に持ち込み、土の艶と湿度の関係を更新してきた。

山荘 無量塔 — 由布院

由布院の鳥越に、移築古民家を組み替えた十二室。磨き込まれた土の艶が、湯の湿気を受けてなお光る。

Media Picks Score: 92 / 100  12室、離れの料理旅館。

目安価格 ¥176,000–¥194,000 / 泊 (2名1室・通常期)


山荘 無量塔 — 由布院・鳥越 · 移築古民家による全12室の離れ宿、土と木の左官仕事
PHOTO: 山荘 無量塔 — 公式サイトを見る →

由布岳の麓、鳥越地区の静かな雑木林に十二室の離れを散らした一九九二年開業の宿。各室は日本各地から移築した古民家を組み替えたもので、骨格の木組みに対して、壁は左官の手仕事が受け持つ。磨きを重ねた土の面は、光を吸わずに反す。湯殿に立ち込める湿気のなかでも、その艶が曇らないのは、表面の緻密さが結露を粒として留めず、土の内側へ通すためだ。素材としての土が、湿度を敵ではなく対話の相手とする。木と石と土を一つの空間で衝突させながら破綻させない構成力に、現代の左官仕事の到達点が見える。

版築と土壁 — 突き固めた土の層を見せる

版築は、土を型枠のなかで層状に突き固めて壁とする、最も古い土の構築法のひとつだ。塗るのではなく、突く。乾くと地層のような縞模様が立ち現れ、土そのものの重さと量感が空間に持ち込まれる。浴室では、塗り壁の繊細さとは別種の、塊としての土の存在感が湯に向き合う。現代の宿では、版築と塗りの土壁を併用し、垂直面の表情を場所ごとに描き分ける試みが見られる。

おやど 二本の葦束 — 由布院

四五〇〇坪に十室を散らす由布院の離れ宿。土壁の露天が、由布岳の湿った空気をそのまま壁に映す。

Media Picks Score: 91 / 100  10室、全室離れの料理旅館。

目安価格 ¥103,000–¥144,000 / 泊 (2名1室・通常期)


おやど 二本の葦束 — 由布院 · 土壁に囲まれた露天風呂、由布岳を望む湯殿
PHOTO: おやど 二本の葦束 — 公式サイトを見る →

由布院の郊外、四五〇〇坪の敷地に古民家と和洋の建物を点在させた、全室離れの宿。湯殿のいくつかは土壁が直接外気に触れる半露天で、室内の塗り壁とは異なる過酷さに晒される。降雨と湯気の双方を受ける壁は、塗り重ねの厚みとすさの量で耐久を稼ぐ。屋内の磨き壁が鏡面を志向するのに対し、ここでは土の素地に近い、層と量感を見せる面が湯と向き合う。由布岳から下りてくる湿った空気を、壁がそのまま吸って色を変える。土を「仕上げ」ではなく「環境装置」として読むなら、半露天の土壁ほど雄弁な教材はない。塗りと突き固めの中間にある、土の生々しさを残した一軒である。

具体情報

  • 所在: 大分県由布市湯布院町(由布院温泉)
  • 客室数: 10室(全室離れ)
  • 敷地: 約4,500坪
  • 湯: 貸切露天・竹林の湯など複数、土壁の半露天を含む

三つの土が示すもの

聚楽壁は土の地色を、大津磨きは土の艶を、版築は土の量感を見せる。同じ土から出発しながら、湿度への応答の仕方はこれほど分かれる。共通するのは、どれも土を「水に弱い素材」としてではなく、「水と呼吸する素材」として扱っている点だ。タイルが結露を表面で弾くのに対し、土はそれを内へ引き受け、また吐き出す。湯殿の壁が乾いていくときの、土が色を戻していく数十分。その時間を眺められる宿は、それほど多くない。

よくある質問

Q. 浴室の土壁はどのくらい持ちますか?

A. 結合材の配合と塗り重ねの精度に大きく依存しますが、適切に施工された土壁は数十年単位で維持されます。本稿で触れた宿はいずれも定期的な左官の手入れを前提に湯殿の壁を保っています。

Q. 聚楽壁・大津磨き・版築の違いを一言で言うと?

A. 聚楽壁は土の地色を薄く見せる仕上げ、大津磨きは磨いて鏡面の艶を出す技法、版築は土を突き固めて層の量感を見せる構築法です。同じ土から出発し、表情の方向がそれぞれ異なります。

Q. 土壁の湯殿を最も楽しめる季節は?

A. 編集部が推すのは梅雨です。湿度が高まるほど土は水分を吸って色を深め、乾くと戻る。その呼吸が最も豊かに現れるのが、六月から七月にかけての時期です。

Q. 土壁の浴室で注意すべきことは?

A. 油分や強い洗剤が土の表面を傷めることがあります。宿側の案内に従い、磨き壁には直接触れすぎないなどの配慮をすると、土の状態を長く保つ助けになります。

本記事の参考情報

Wikipedia: 修善寺温泉 — あさばが立つ温泉地の歴史・地理の背景
Wikipedia: 由布院温泉 — 山荘 無量塔・おやど 二本の葦束が位置する温泉地の背景

編集部から

土を湯殿の壁に塗るという選択は、効率の論理では説明できない。剥落の危険を抱え、手入れを宿命づけられながら、それでも土が選ばれるのは、水と呼吸する素材だけが持つ時間の表情があるからだ。聚楽壁の静けさ、大津磨きの艶、版築の量感。次に湯に浸かるとき、壁の土が湿気を吸って色を変える数十分を、目で追ってみてほしい。垂直の壁を読むこの旅は、いずれ浴室の天井や床、淵石へと続いていく。土と建築の対話は、まだ半ばである。

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