箱根・宮ノ下の富士屋ホテルは、1891年の本館から1960年のフォレスト・ウイングまで、築年の異なる四つの宿泊棟に客室120室を分けて持つ一軒である。温泉地に洋館が建つという明治の矛盾を、同じ敷地の上で四度、別々の答え方で解いてきた場所だと言える。1878年の創業から数えて140年余、2年間の耐震改修を経て2020年7月に全館を再開業した。棟ごとの築年・構造・室数という数値を並べていくと、この一軒が「クラシックホテル」という一語では括れないことが見えてくる。紅葉の盛り(例年11月中旬〜下旬)に入る前の初秋は、庭園の緑が濃く、屋根と軒の線がよく読める時期にあたる。

四つの宿泊棟 — 築年・構造・室数・客室面積・天井高(公式の客室ページに基づく)
棟 築年 客室 客室面積 天井高 構造・意匠
本館 1891年 12室 28〜50㎡ 3.5〜3.7m 木造。唐破風の玄関ポーチ、左右対称の八角突出部。登録有形文化財
西洋館 1906年 21室 33〜64㎡ 3.1〜3.8m 木造二棟。鎧戸付き上げ下げ窓。創建時の姿が最もよく残る。登録有形文化財
花御殿 1936年 40室 35〜113㎡ 3.0〜3.9m 鉄筋コンクリート造5階建、コの字型平面、銅板葺。設計・山口正造。登録有形文化財
フォレスト・ウイング 1960年 47室 41〜82㎡ 2.7m 同型客室が整然と並ぶ近代建築。最上階に温泉大浴場
合計 — 120室 28〜113㎡ 2.7〜3.9m 敷地 約7,600坪/庭園 約5,000坪

※ 目安価格は公開販売価格の集計に基づく参考値で、実際の予約料金とは異なります。1泊2名利用時の1室あたり料金(税込)です。


富士屋ホテル — 箱根・宮ノ下 · 瓦葺の本館と銅板葺の屋根群が斜面に連なる外観
PHOTO: 富士屋ホテル — 公式サイトを見る →

四棟という構成 — 一軒に七十年分の設計思想が並ぶ

まず数を押さえたい。富士屋ホテルの客室ページが示す内訳は、本館12室、西洋館21室、花御殿40室、フォレスト・ウイング47室。合わせて120室で、宿泊棟の総客室数と一致する。花御殿については資料によって室数の表記が揺れることがあるが、運営元の公式表記は40室であり、四棟の合計もそこで初めて120に収束する。

四棟の築年差は69年。1891年の木造洋館と1960年の鉄筋コンクリート新館が、同じ約7,600坪の敷地に並んで営業していることになる。しかも西洋館21室のうち1室は、1920年に建てられた3号館の2階にあたる。「四棟」という整理は便宜的なもので、実際には明治・大正・昭和・令和の増改築が層のように積み重なった建築群である、と読むほうが正確だと言える。

宮ノ下は江戸期に箱根七湯のひとつに数えられた湯治場だった。そこへ横浜帰りの山口仙之助が1878年に洋式ホテルを開いた——温泉地に洋館という取り合わせは、当初から矛盾として立ち上がっている。その矛盾を建物でどう処理するかが、以後140年の設計課題になった。

本館(1891年) — 唐破風の下に西洋式ホテルの中枢を置く


富士屋ホテル 本館 — 箱根・宮ノ下 · 1891年築、白い列柱と木彫の欄間、寄木張りの床が残る一階
PHOTO: 富士屋ホテル 本館 — 公式サイトを見る →

現役最古の宿泊棟。1883年12月の宮ノ下大火で創業時の建物と6年分の記録を失った富士屋ホテルは、翌1884年に客室12室の平屋建洋館(のちのアイリー)を建て、そこから7年を置いて1891年に本館を新築した。以来、フロント機能を含むホテルの中枢としてこの建物が使われ続けている。

外観の要点は三つ。正面中央に唐破風屋根の玄関ポーチを置くこと、その左右に八角平面の突出部をつくって正面性を強調すること、そして全体を左右対称にまとめること。この構成はすでに1884年のアイリーで確立されていたと公式の建築解説にあり、以後の富士屋ホテル建築の文法になった。洋風の意匠を基調にしながら、瓦葺の屋根と破風という和の語彙を外部に置く。矛盾を隠すのではなく、正面に据えたわけである。

客室は12室のみ。天井高3.5〜3.7メートル、面積は28平方メートルのダブルから、47〜50平方メートルのジュニアスイートまで。温水を用いたクラシックな暖房器具が今も残る。チャップリンが滞在した一室に由来する49平方メートル・天井高3.6メートルの客室も、この棟に置かれている。

西洋館(1906年) — 創建時の姿が最もよく残る双子の棟

日露戦争後の好況期に建てられた客室棟。1号館「カムフィ・ロッジ」と2号館「レストフル・コテージ」からなる。軒が浅く装飾は控えめで、本館や後年の花御殿と比べれば端正に映る。ただし天井・軒・階段の装飾、鎧戸付きの上げ下げ窓、唐破風の玄関といった明治期洋風建築の典型が揃っており、公式解説は「富士屋ホテルの建築のうち最もよく創建時の姿が保存されている」としている。

全21室。客室面積は33〜35平方メートルのツインから、60〜64平方メートル・天井高3.8メートルのスイートまで。四棟のうち最も高い天井を持つのがこの棟である。前述のとおり21室のうち1室だけは1920年築の3号館2階にあり、棟の名称と実際の建物が一対一で対応していない箇所として、数え方の面白さが残っている。

花御殿(1936年) — 鉄筋コンクリート5階建に和風意匠を纏わせる


富士屋ホテル 客室 — 箱根・宮ノ下 · 木彫の欄間と格天井を備えた和洋折衷のクラシックルーム
PHOTO: 富士屋ホテル — 公式サイトを見る →

この一軒を一枚の写真で語るなら、まず選ばれるのが花御殿だろう。文化庁の文化遺産オンラインに載る登録内容は具体的である。昭和前/1936年、鉄筋コンクリート造5階建、銅板葺一部鉄板葺、建築面積1088平方メートル、1棟。コの字型平面を持ち、意匠は和風を基調とする。複雑な屋根と高欄付のバルコニーに特徴があり、設計はホテル経営者の山口正造、工事請負は河原徳次郎。登録年月日は1997年12月12日、種別は登録有形文化財(建造物)である。

注目したいのは構造と意匠の関係だ。1936年という年に鉄筋コンクリート5階建を選ぶのは、耐火・耐震の観点では合理的な判断である。そのうえで屋根を複雑に折り、銅板を葺き、真紅の高欄付バルコニーを回した。近代構造の骨格に、社寺建築由来の表層を重ねている。建築家ではなく経営者が設計者として記録されている点も含めて、様式の整合よりも「箱根の温泉地に立つホテルはこう見えるべきだ」という判断が先行した建物だと読める。

客室は40室。すべてに花の名がつき、室名にちなんだ花のモチーフが内装とルームキーに配される。面積の幅は四棟で最も広く、35平方メートル前後のデラックスツインから、69〜74平方メートルのヘリテージルーム、そして最上階を占める113平方メートル・4名定員のペントハウススイートまで。天井高も3.0〜3.9メートルと室ごとに異なる。同じ棟の中で間取りがこれだけ揃わないのは、標準化される前の設計だからである。


富士屋ホテル 花御殿 — 箱根・宮ノ下 · 1936年築、花意匠の照明と木製建具を備えた客室
PHOTO: 富士屋ホテル 花御殿 — 公式サイトを見る →

地下1階には、ホテルの室内プールとしては日本初とされる天然温泉プール「マーメイド」と、史料展示室「ホテル・ミュージアム」が入る。改修の過程で見つかった経営資料や書簡、実現しなかった建築計画の図面まで並ぶ展示で、営業時間は5時から24時。建築を見に来た旅程なら、ここを最初に回すのが効率が良い。

フォレスト・ウイング(1960年) — 装飾を捨てた棟が引き受けるもの

四棟のうち唯一、登録有形文化財の表示を持たない棟である。高度成長期の1960年、かつてフォレスト・ロッジが建っていた高台に新築された。装飾の少ない外観、同型の客室が整然と並ぶ構成。公式解説も「それまでの富士屋ホテル建築とは明らかに異なる」と率直に書いている。四代目・山口堅吉の時代に新築された唯一の建物でもある。

ただし現在の滞在で、この棟が果たす役割は小さくない。客室47室は四棟で最多。面積は41平方メートルで揃い、天井高2.7メートル。段差が少なく、間取りの当たり外れがない。82平方メートルのプレミアスイートには半露天風呂が備わる。そして最上階の6階に、宮ノ下温泉の大浴場と、リラクゼーション施設「禅」が入る。文化財の棟が担えない機能を、この1960年の棟がまとめて引き受けている構図である。

温泉と建築 — 120室すべての浴室と、6階からの俯瞰


富士屋ホテル スパ — 箱根・宮ノ下 · フォレスト・ウイング6階、浴槽から銅板葺の屋根群と外輪山を望む
PHOTO: 富士屋ホテル スパ — 公式サイトを見る →

富士屋ホテルは敷地内に4箇所の源泉を持ち、宮ノ下温泉を全120室のバスルームに引いている。文化財の棟に泊まっても、湯は客室で使える。温泉地に洋館を建てた明治の判断が、湯を捨てる選択ではなかったことが、この配管に表れている。

共用の大浴場はフォレスト・ウイング6階のスパ。営業は14時から25時、翌朝は5時から11時。浴槽からは箱根外輪山と、眼下に自館の銅板葺の屋根群が見える。1930年築の食堂棟が持つ塔屋の稜線を、湯に浸かりながら見下ろす——温泉建築を主題に据えるなら、この一点だけでも訪れる価値があると編集部は考える。

食に関わる空間も年代で分かれている。メインダイニングルーム・ザ・フジヤは1930年開業、席数120、高山植物を描いた格天井と欄間の彫刻を持つ。レストラン・カスケードは1920年築の旧宴会場「カスケードルーム」を復原した空間で、当時のステンドグラスと彫刻がそのまま残る。日本料理は、1895年に宮ノ下御用邸として造営され1946年に下賜された純和風建築「菊華荘」で供される。棟を移動するたび年代が変わる、という体験がここでも繰り返される。

平成の大改修が選んだこと

2013年の耐震改修促進法改正を受けて耐震診断を実施し、その結果として全館の耐震工事に踏み切った。工期は2年余。2018年7月15日に創業140周年を迎え、2020年7月15日に全館リニューアルとしてグランドオープンしている。

公式が掲げた設計方針は三語である。「ゆるやかな復原」「木造ならではの空間づくり」「新技術と伝統継承」。厳密な創建時復原でも、全面的な現代化でもない中間を選んだ、という宣言だと読める。この改修では、1920年に整備された「日本閣」「カスケードルーム」「厨房」「フィッシュアレイ」といったバックヤード群が解体され、4階建の「カスケード・ウイング」が新築された。表に残す建築と、裏で入れ替える建築を明確に分けたわけである。文化財の棟を営業しながら維持するには、この線引きが要る。

立地と季節 — 初秋の宮ノ下

所在地は神奈川県足柄下郡箱根町宮ノ下359。箱根登山鉄道・宮ノ下駅から徒歩7分、ホテル前バス停からは徒歩2分。新宿駅からロマンスカーと登山鉄道を乗り継いで約117分、小田原駅からは約47分。国道1号線に面しており、東名御殿場ICからは車で約35分。

季節について。庭園の紅葉は例年11月中旬から下旬で、あじさいは6月下旬から7月上旬。9月から10月上旬の初秋は、そのいずれの盛りからも外れる。裏返せば、庭園の色に視線を奪われずに屋根・破風・高欄といった建築の輪郭を追える時期であり、約5,000坪の庭園を20分ほどかけて歩くにも歩きやすい。夏季限定の屋外プールは8月末で営業を終える。建築を主題に据えた旅程なら、初秋は合理的な選択と言える。

Media Picks Score

94 / 100 — 公開レビューデータを集計した評価に、テーマ適合度を加えて算出した総合値。内訳の観点は、立地(宮ノ下駅徒歩7分・国道1号沿い)/建築(登録有形文化財を含む四棟構成)/体験(全120室の温泉浴室と6階大浴場)/価格感/編集適合度の五つ。温泉建築というテーマに対し、四棟の年代差がそのまま観察対象になる点を高く採った。

目安価格 ¥46,000–¥56,000 / 泊(2名1室・通常期の下限帯) 棟・室種を問わない全プランの中央値は¥140,000台に位置します。

具体情報

  • 所在地: 神奈川県足柄下郡箱根町宮ノ下359
  • 最寄り駅: 箱根登山鉄道・宮ノ下駅から徒歩7分(ホテル前バス停から徒歩2分/箱根湯本駅からタクシー約15分)
  • 客室数: 120室(本館12・西洋館21・花御殿40・フォレスト・ウイング47)
  • 客室サイズ: 28〜113㎡(天井高2.7〜3.9m)
  • チェックイン: 15:00〜 / アウト 〜11:00。全室禁煙
  • 温泉: 源泉4箇所。全120室のバスルームに宮ノ下温泉。大浴場はフォレスト・ウイング6階(14:00〜25:00/5:00〜11:00)
  • 食事: フランス料理(メインダイニングルーム・ザ・フジヤ/席数120)、洋食(レストラン・カスケード/席数90)、日本料理(旧御用邸 菊華荘/席数60・個室あり)
  • 創業 / 再開業: 1878年7月15日創業、2020年7月15日に全館リニューアルグランドオープン
  • 文化財: 花御殿は1997年12月12日登録の登録有形文化財(建造物)。本館・西洋館も登録有形文化財・近代化産業遺産の表示を持つ
  • 敷地: 約7,600坪(庭園 約5,000坪)
  • 言語対応: 公式サイトは英語・繁体字中国語・簡体字中国語・韓国語・スペイン語に対応

向く人 / 向かない人

  • 向く:
    近代建築・登録有形文化財を目的に宿を選ぶ旅、部屋ごとの間取り差そのものを楽しめる滞在、温泉と洋館建築を一度に見たい旅程、日本のリゾート史に関心のある海外からの旅行者
  • 向かない:
    設備の均質さと最新性を最優先する滞在(築年の古い棟は間取りも造りも室ごとに異なる)、段差の少ない動線が必須の旅程(棟間の移動と高低差がある)、客室でこもりきりで過ごす旅(この一軒の価値は棟の移動にある)

よくある質問

Q. 四棟のうち、どの棟を選ぶと良いですか?

A. 建築を主題にするなら花御殿か西洋館です。花御殿は1936年の鉄筋コンクリート造に和風意匠を纏わせた棟で、40室すべて間取りが異なります。西洋館は創建時(1906年)の姿が最もよく残る21室。設備の均質さと段差の少なさを取るならフォレスト・ウイング(41㎡・47室)が扱いやすい選択です。

Q. 花御殿の客室数は40室ですか、43室ですか?

A. 運営元の公式客室ページの表記は40室です。本館12室・西洋館21室・フォレスト・ウイング47室と合わせて、総客室数120室と一致します。資料により数え方が揺れる場合がありますが、本記事は公式表記の40室を採っています。

Q. 登録有形文化財に登録されたのはいつですか?

A. 花御殿は1997年12月12日に登録有形文化財(建造物)として登録されました。文化庁の文化遺産オンラインには、鉄筋コンクリート造5階建・建築面積1088平方メートル、設計は山口正造、工事請負は河原徳次郎と記載されています。本館と西洋館も、公式サイト上で登録有形文化財・近代化産業遺産として表示されています。

Q. 温泉は客室でも入れますか?

A. 入れます。敷地内に源泉が4箇所あり、全120室のバスルームに宮ノ下温泉が引かれています。共用の大浴場はフォレスト・ウイング6階のスパで、14:00〜25:00と翌5:00〜11:00の二部制です。

Q. 初秋(9〜10月上旬)に訪れる意味はありますか?

A. 庭園の紅葉は例年11月中旬〜下旬、あじさいは6月下旬〜7月上旬で、初秋はそのいずれの盛りからも外れます。花の色に視線を奪われないぶん、屋根の勾配・破風・高欄といった建築の輪郭を追いやすい時期です。約5,000坪の庭園を歩くにも過ごしやすい気候にあたります。

本記事の参考情報

・富士屋ホテル ブランドサイト「建築」 — 棟ごとの成り立ちと意匠
・富士屋ホテル ブランドサイト「歴史」 — 創業から平成の大改修まで
・文化遺産オンライン(文化庁)「富士屋ホテル花御殿」 — 構造・建築面積・設計者・登録年月日
・箱根町観光協会 — 宮ノ下および箱根エリアの観光情報

編集部から

一軒のホテルを四つの築年に分けて読むという作業は、結局のところ「同じ問いに、時代ごとにどう答えたか」を並べる作業だった。温泉地に洋館を建てる。その最初の答えが1891年の唐破風であり、1936年には鉄筋コンクリートに銅板の屋根を載せる答えになり、1960年には装飾を捨てて客室を41平方メートルで揃える答えになった。2020年の改修は、そのどれも消さずに営業を続けるという四つ目の答えである。

箱根には登録有形文化財を持つ宿がほかにもあり、湯屋建築を主題にできる温泉地も全国に散らばっている。次はどの一軒を、どの断面で切るか。四棟という切り口が使えるのは、この一軒だけではないはずである。

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