温泉建築の多くは、地上に湯屋を建てる。木を組み、屋根を掛け、湯船を据える。だが、地中へ掘り下げるという別解を選んだ宿が、日本にはわずかに残っている。岩盤を穿ち、あるいは天然の岩窟を利用し、湯を地の内側に据えるという設計思想。梅雨入り前の湿度のなかで、湯面に落ちる一条の光を追いたくなる季節に、洞窟の湯を持つ宿を3軒、編集部が選んだ。

※ 目安価格は公開販売価格の集計に基づく参考値で、実際の予約料金とは異なります。1泊2名利用時の1室あたり料金(税込)です。

掘るという設計、あるいは自然を借りるという設計

洞窟の湯を持つ宿は、大きく二つに分かれる。天然の岩窟をそのまま浴室に転用した宿と、後から人の手で岩盤を穿った宿である。前者は建築というより地質の受容であり、湯船の輪郭は数百万年の海食や、川の浸食が決めている。後者は近世以降、火薬や機械掘削の技術が可能にした人工的な設計であり、天井の高さや動線を建築家が決められる余地がある。

いずれの場合も、地上の湯屋と決定的に異なるのは光の入り方である。開口部が制限されるため、外光は一方向からしか差し込まない。湯面に落ちる光が細く鋭くなり、影の側は深く沈む。壁は素掘りの岩肌のまま残されることが多く、結露と湯気で湿り、鉱物が滲みだし、時間とともに色を変えていく。梅雨の季節は、この結露がもっとも顕著に現れる時期でもある。

紀州の海食洞——ホテル浦島「忘帰洞」


ホテル浦島 忘帰洞 — 和歌山・那智勝浦 · 熊野灘の海食洞を利用した間口25mの巨大洞窟浴場
PHOTO: ホテル浦島 忘帰洞 — 公式サイトを見る →

Media Picks Score: 85 / 100  681室、大規模温泉旅館。ホテル浦島(和歌山・那智勝浦)

目安価格 ¥41,000–¥89,000 / 泊 (2名1室・通常期)

紀伊半島の南端、勝浦湾に突き出した狼煙山半島に建つ大型温泉旅館。名物「忘帰洞」は、熊野灘の荒波が泥岩を削り出した天然の海食洞であり、間口約25m、奥行約50m、天井高約15m。洞窟の入口はそのまま外海に向かって開き、湯船に浸かりながら、寄せては返す波の音を耳の奥に置くことができる。名の由来は、紀州徳川家の徳川頼倫がこの湯に浸り「帰るのを忘れる」と評したという伝承にある。

洞窟浴場としてのスケールにおいて、これに並ぶ例は日本国内に数えるほどしかない。宿そのものは681室を有する大規模観光施設で、客室運営はカジュアルな性格が強く、静けさを求める旅とは方向が異なる。しかし忘帰洞という建築遺産級の浴場ひとつを目的に組む旅程には、他にない選択肢として位置づけられる一軒である。同館にはもうひとつの海食洞「玄武洞」もあり、二つの天然洞窟を比較して入るという体験が可能な、稀有な設計になっている。

天降川の岩を借りる——妙見石原荘「洞窟蒸し湯」と「七九郎風呂」


妙見石原荘 — 鹿児島・霧島 · 天降川渓谷の岩をくり抜いた洞窟蒸し湯を持つ全19室の温泉宿
PHOTO: 妙見石原荘 — 公式サイトを見る →

Media Picks Score: 94 / 100  19室、温泉旅館。妙見石原荘(鹿児島・霧島)

目安価格 ¥98,000–¥194,000 / 泊 (2名1室・通常期)

霧島連山を源流とする天降川の渓谷に沿って、約1万坪の敷地に19室だけを配する温泉宿。1966年開業、7本の自家源泉を持ち、湯は貯湯槽を経ずに地中から直接浴槽へ引かれる。特筆すべきは、渓谷の岩をくり抜いてつくられた「洞窟蒸し湯」と、川床の岩を利用した野趣の湯「七九郎風呂」の二つの浴室である。前者は素掘りの壁がそのまま残り、蒸気が籠もる暗がりのなかで、湯面に落ちる光の輪郭がわずかに揺れる。

建築としての妙見石原荘は、洞窟の湯というひとつの要素だけで語れる宿ではない。既存の渓谷地形を極力そのまま残し、客室棟と浴場を地形に沿って配置する設計思想が全体を貫いている。露天風呂の一部は川面と同じ高さに置かれ、湯に浸かると水面の視線と川面の視線が接続する。洞窟の湯はその設計哲学の一部——「地面の側から湯屋を考える」という立場——を最も先鋭に示す装置として機能している。西日本で洞窟湯を軸に一軒だけ選ぶなら、編集部はまずここを推す。

三百年の自噴岩窟——壁湯温泉 福元屋


壁湯温泉 福元屋 — 大分・九重町 · 町田川沿いの岩壁から自噴する天然洞窟の湯、明治40年創業9室の秘湯
PHOTO: 壁湯温泉 福元屋 — 公式サイトを見る →

Media Picks Score: 92 / 100  9室、山中の湯治宿。壁湯温泉 福元屋(大分・九重町)

目安価格 ¥37,000–¥53,000 / 泊 (2名1室・通常期)

大分県九重町、町田川のほとりに建つ9室の湯治宿。明治40年(1907年)創業。名物の「天然洞窟風呂」は、川床に近い岩壁の底から湯が自噴し、約300年前から湧き続けているとされる。湯量は毎分およそ1,300リットル、含塩化土類食塩泉。建屋ではなく岩窟そのものが湯船を包むかたちで、天井は低く、壁は素掘りのまま。混浴だが、女性は隣接する「女性専用の手掘り風呂」も選べる。日本秘湯を守る会に加盟する一軒であり、「純温泉協会」の認定も受けている。

ここでは湯屋がまず建築ではなく、地の自噴に対する謙虚な応答として立ち上がっている。建物は湯の周囲に添え物として建てられ、湯そのものが宿の中心である。妙見石原荘が「岩を借りる」設計だとすれば、福元屋は「岩に借りられている」宿と言える。9室のみの規模、外湯感覚の共同浴、料理は山の恵みを中心とした素朴な献立。派手さは一切ないが、洞窟湯という主題を最短距離で体験できる一軒として、編集部が選んだ。

三つの解、三つの態度

三軒を並べると、洞窟の湯という主題に対する三つの態度が見えてくる。ホテル浦島の忘帰洞は、地質そのものを浴場に転用した究極の「借景」であり、スケールの圧倒によって記憶に残る。妙見石原荘は、既存の渓谷地形を保存しながらそこに湯屋を差し込む、設計と自然の対話。福元屋は、湯そのものが主で建物は従、という順序を最も明確に体現する。

いずれも、地上の湯屋建築とはまったく別の系譜に属している。木造の湯屋は素材の経年変化と建具の精度で味わうものだが、洞窟の湯は岩そのものの厚みと湿度で語る。梅雨の湿度が高い季節、結露が壁を伝い、湯気が滞留する時期こそ、この設計思想がもっともよく現れる。乾いた秋よりも、むしろ今の季節に訪ねたい湯屋である。

よくある質問

Q. 洞窟の湯は混浴が多いのですか?

A. 天然の岩窟をそのまま浴場にする場合、構造上の制約から混浴形式を残す宿が多く見られます。福元屋は基本混浴ですが女性専用の別浴もあります。ホテル浦島の忘帰洞は時間帯によって男女入替制、妙見石原荘の岩窟湯は男女別に分かれています。事前に公式サイトで入浴形式を確認することを勧めます。

Q. どの季節が向いていますか?

A. 洞窟の湯は年間を通して楽しめますが、編集部が推す時期は梅雨から初秋にかけて。この季節は結露と湯気が滞留し、素掘りの岩肌の質感が最もよく現れます。冬は寒い脱衣所を経る必要があり、体力への配慮が要ります。

Q. 3軒のなかで最も静けさを求める旅に向くのは?

A. 部屋数が少ない順に、福元屋(9室)、妙見石原荘(19室)、ホテル浦島(681室)。静けさを最優先するなら福元屋または妙見石原荘、建築遺産としてのスケールを目的にするならホテル浦島、と使い分けができます。

Q. 予約はどのくらい前に取るべきですか?

A. 妙見石原荘の離れタイプは2〜3か月前、福元屋は1〜2か月前、ホテル浦島は繁忙期以外は直前でも取れます。GW・お盆・年末年始は3軒とも早めに埋まる傾向があります。

本記事の参考情報

和歌山県公式観光サイト「忘帰洞」 — 天然海食洞の来歴
大分県公式観光サイト「壁湯温泉」 — 秘湯認定・自噴泉の情報
鹿児島県観光サイト「妙見石原荘」 — 施設概要

編集部から

洞窟の湯を持つ宿は、日本全国を見渡してもごく限られる。天然の岩窟に恵まれた土地、地質学的に掘削が可能な岩盤、そして「地上に建てない」という判断を採用した施主。この三つが揃わなければ、この設計は生まれない。本稿ではあえて3軒に絞ったが、他にも紀伊半島や東北の一部にわずかな例が残されている。次は季節を変えて、寒冷地の岩窟湯——結露が凍りつく側の設計——を訪ねてみたいと考えている。

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