急斜面に建つ温泉旅館の建築を、段差と渡り廊下から読む宿として、編集部が選んだ 5 軒を紹介します。平らな敷地を持てなかった湯宿は、川岸へ落ちる地形に棟を継ぎ足し、階段棟や廊下、ときには吊り橋で高低差をつないできました。本稿が取り上げるのは、湯ヶ島の合流点に昭和初期の棟を連ねるおちあいろう、有馬の滝川沿いに三つの区画を重ねる陶泉 御所坊、早川の岸に木造4階を立ち上げた塔ノ沢 一の湯本館、かずら橋で夕食処へ渡る湯西川の本家伴久、そして88段を下りて川岸の湯に至る塩原の明賀屋本館。料理や泉質の話はいったん脇に置き、館内を歩いたときに足裏が感じる段差と、窓の外で変わっていく川との距離に焦点を絞りました。雨上がりに木組みが濃く見える晩秋を想定した読み物です。
| # | ホテル | エリア | 客室 | 目安価格 | 1行特徴 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1 | おちあいろう | 伊豆市(湯ヶ島) | 16室+別邸1棟 | ¥160–¥178k | 登録有形文化財7件の棟を、廊下と階段棟でつなぐ |
| 2 | 陶泉 御所坊 | 神戸市北区(有馬温泉) | 16室 | ¥43–¥61k | 滝川沿いの斜面に、年代の違う三つの区画が段をなす |
| 3 | 塔ノ沢 一の湯本館 | 箱根町(塔ノ沢) | 21室 | ¥23–¥29k | 早川の岸に木造4階。大正の増築を重ねた屋根の複合 |
| 4 | 本家伴久 | 日光市(湯西川温泉) | 24室 | ¥51–¥56k | かずら橋で川を渡り、高床の夕食処へ向かう動線 |
| 5 | 明賀屋本館 | 那須塩原市(塩原温泉 塩の湯) | 35室 | ¥21–¥26k | 88段の木の階段で谷底の川岸露天へ下りる |
建築データで並べる 5 軒
創業年、建物の年代、公表されている規模、そして敷地の高低差をどう処理しているか。延床面積や敷地の高低差を数値で公表している宿はなく、ここでは文化庁の登録データと各宿の公式サイトに書かれている範囲にとどめています。
| 宿 | 創業 | 主な建物の年代・増築 | 公表されている規模 | 高低差のつなぎ方 |
|---|---|---|---|---|
| おちあいろう | 1874年(明治7年) | 本館1933〜35年、眠雲亭・紫檀宴会場・配膳室階段棟1933〜37年、住居棟1935年頃 | 建築面積 本館356㎡/紫檀宴会場378㎡/配膳室階段棟73㎡ | 地上2階地下1階の住居棟、眠雲亭と宴会場を結ぶ階段棟、玄関棟から東へ延びる廊下 |
| 陶泉 御所坊 | 鎌倉時代(「湯口屋」として) | 聴泉御坊・雲山御坊・翠巒御坊の三区画。翠巒御坊は戦後すぐの建築 | 延床面積は非公表 | 区画ごとに階段で上り下りする構成(公式は階段移動の少ない客室を別に明記) |
| 塔ノ沢 一の湯本館 | 1630年(寛永7年) | 明治期の建物に1917年・1922年増築、1926〜1988年改修 | 木造4階一部地下1階、建築面積786㎡ | 階高に応じて入母屋造と寄棟造を組み合わせ、4階の食事処へは階段のみ |
| 本家伴久 | 1666年 | 昭和の木造本館。2025年にスイート客室を改装 | 延床面積は非公表 | 本館と夕食処「平家隠れ館」をかずら橋で結ぶ。館内にエレベーターなし |
| 明賀屋本館 | 公式記載なし(川岸露天は三百年の歴史と記す) | 和洋折衷の太古館(戦時中に女子学習院の疎開先) | 延床面積は非公表 | 館から川岸露天風呂まで88段の階段(途中にベンチ) |
※ 目安価格は公開販売価格の集計に基づく参考値で、実際の予約料金とは異なります。1泊2名利用時の1室あたり料金(税込)です。
1. おちあいろう — 伊豆市(湯ヶ島)
湯ヶ島、二つの川が合わさる岸に、昭和初期の七つの登録文化財を廊下と階段棟でつないだ一軒。
16室+別邸1棟、木造2階建主体の登録文化財旅館。
目安価格 ¥160,000–¥178,000 / 泊 (2名1室・通常期)

なぜ選ばれるか
本谷川と猫越川が合流して狩野川となる地点に、玄関棟、本館、眠雲亭、紫檀宴会場、配膳室階段棟、応接棟、住居棟及び廊下の7件が登録有形文化財として並びます。注目したいのは主役の客室棟ではなく、眠雲亭と紫檀宴会場を接続する配膳室階段棟という附属の一棟です。北半を階段室、南半を配膳室とする木造2階建で、段差を処理するためだけの建物に良材を惜しまなかった点に、この宿の設計思想が表れています。一連の建設を手がけたのは近在の大滝に住む棟梁、青木清平。
集約レビューの傾向
公開レビューデータを集計すると、評価の中心は料理と接客で、サウナを含む浴場やラウンジへの言及も多く見られます。一方で価格に対する見方は分かれ、ラウンジについても好みが割れる傾向があります。建物を目当てに訪れる層と、滞在全体の完成度を求める層の双方から支持を集めている一軒と言えます。
向く人 / 向かない人
- 向く: 文化財建築を時間をかけて歩きたい大人の二人旅、昭和初期の数寄屋意匠や欄間に関心のある人、駅送迎を使って車なしで動きたい旅程
- 向かない: 価格を抑えたい短期滞在(1泊2名で十数万円台)、1階以外の客室で小さな子ども連れの滞在を考えている家族(公式は子ども連れを1階客室に限定)
具体情報
- 最寄り駅: 伊豆箱根鉄道「修善寺」駅から車で約20分(北口から14:15/15:15/16:15発の無料送迎、要予約)
- 客室サイズ: 47.68〜82.63㎡(別邸「石楠花」は547㎡の3階建)
- チェックイン: 15:00〜 / アウト 10:00〜11:00
- 建物: 玄関棟1933年、本館1933〜35年、眠雲亭・紫檀宴会場・配膳室階段棟1933〜37年(いずれも登録有形文化財)
- 創業: 1874年(明治7年)。明治14年に山岡鉄舟が「落合樓」と命名
- 駐車場: 無料
- バリアフリー: 2階客室へはエレベーターあり
2. 陶泉 御所坊 — 神戸市北区(有馬温泉)
滝川沿いの斜面に、年代の違う三つの区画を段状に重ねた有馬の老舗。客室ごとに階段の数が違う。
16室、有馬の老舗旅館。
目安価格 ¥43,000–¥61,000 / 泊 (2名1室・通常期)

なぜ選ばれるか
鎌倉時代に「湯口屋」として創業したと伝える御所坊は、館内を聴泉御坊・雲山御坊・翠巒御坊という三つの区画に分けています。滝川のせせらぎが聞こえる区画、善福寺の糸桜を望む区画、戦後すぐに建てられた中庭側の区画と、眺めも建築年代も異なる棟が、有馬の坂に沿って上下に連なる構成です。公式が特定の客室を「比較的階段移動が少なく」と書き添えていること自体が、この宿の立体的な成り立ちを物語っています。看板から器、浴衣まで、無方庵こと綿貫宏介の世界観で統一されている点も見どころです。
集約レビューの傾向
公開レビューデータを集計すると、料理、金泉の湯、接客への評価が厚く、なかでも料理への言及は群を抜いています。弱点として挙がりやすいのは客室の古さと価格で、歴史ある建物の年季をどう受け止めるかで印象が分かれる宿です。建物の古さを味わいと捉えられる人ほど評価が高い、という構図が読み取れます。
向く人 / 向かない人
- 向く: 有馬の町歩きと湯宿の建築を一続きで味わいたい人、文人ゆかりの客室に泊まりたい人、三世代で広い客室を使いたい家族(最上位客室は約130㎡)
- 向かない: 階段の上り下りを避けたい同行者がいる旅程(客室によって移動量が異なる)、新築の設備水準を求める人
具体情報
- 最寄り駅: 神戸電鉄「有馬温泉」駅。連絡すれば駅まで迎えあり
- 客室サイズ: 約37.3〜約130㎡(プレミアムスイート2室は約130㎡)
- 客室構成: プレミアムスイート2室、デラックス8室、スーペリア3室、スタンダード3室
- 区画: 聴泉御坊・雲山御坊・翠巒御坊(翠巒御坊は戦後すぐの建築)
- 駐車場: 少し離れた有馬里駐車場を案内。18時までは係員が宿まで送迎
- 創業: 鎌倉時代(「湯口屋」として)
3. 塔ノ沢 一の湯本館 — 箱根町(塔ノ沢)
玉の緒橋の袂、早川の岸に木造4階。大正の増築が屋根の重なりとしてそのまま外観に残る。
21室、木造4階建の登録文化財旅館。
目安価格 ¥23,000–¥29,000 / 泊 (2名1室・通常期)

なぜ選ばれるか
1630年創業、塔ノ沢温泉の入口に立つ一の湯本館は、明治期の建物に1917年と1922年の増築を重ね、1926年から1988年にかけて改修を続けてきた木造4階一部地下1階の建物です。文化庁の登録データは、屋根を銅板や鉄板で葺き、入母屋造や寄棟造を「階高に応じて組み合わせて」複雑な外観を造ると記します。増築の履歴がそのまま屋根の形に現れた、継ぎ足しの建築の教科書のような一棟です。2009年に登録有形文化財となりました。
集約レビューの傾向
公開レビューデータを集計すると、料理、浴場、接客、客室付きの風呂に好意的な声が集まっています。一方で客室の古さへの指摘は目立って多く、清掃や水回りに触れる声も一定数あります。価格帯を考えれば、文化財の建物に泊まる体験そのものを楽しめるかどうかが満足度を分ける一軒です。
向く人 / 向かない人
- 向く: 手の届く価格で登録文化財の木造旅館に泊まりたい人、箱根湯本から近い距離で渓谷沿いの客室を望む人、大正期の大広間や大理石風呂など意匠の細部に関心がある人
- 向かない: 階段の上り下りが負担になる同行者がいる旅程(館内にエレベーターがなく、食事は4階)、最新の設備と防音を優先する人
具体情報
- 最寄り駅: 箱根登山鉄道「箱根湯本」駅からバスで約5分、「上塔ノ沢」下車徒歩1分
- チェックイン: 15:00〜 / アウト 〜10:00(箱根町観光協会の掲載による)
- 食事: 朝夕とも4階のレストラン(大正期の大広間を改装)。夕食は17:45または18:45開始
- 建物: 木造4階一部地下1階、建築面積786㎡。1917年・1922年増築
- 駐車場: 無料・22台
- 創業: 1630年(寛永7年)
- 浴場: 内湯「金泉の湯」「恵の湯」、大正6年にイタリアから輸入した大理石の貸切風呂
4. 本家伴久 — 日光市(湯西川温泉)
湯西川の渓谷で、本館から夕食処へは川を跨ぐかずら橋を渡る。渡り廊下の代わりに橋を架けた宿。
24室、清流沿いの木造旅館。
目安価格 ¥51,000–¥56,000 / 泊 (2名1室・通常期)

なぜ選ばれるか
1666年創業、平家の流れを汲むと伝える本家伴久は、全客室を湯西川の清流沿いに並べ、夕食処「平家隠れ館」を川の対岸寄りに置いています。二つを結ぶのが「かずら橋」で、公式によれば1994年に湯西川で源平が和睦した際に両家が渡り初めをした橋です。渡った先の平家隠れ館は山の自然素材で組んだ高床式。棟と棟の間を屋根付きの廊下ではなく揺れる橋でつなぐという、渡りの動線の極端な一例として選びました。
集約レビューの傾向
公開レビューデータを集計すると、囲炉裏を囲む料理、川沿いの露天風呂、親しみのある接客への評価が中心です。弱点としては客室の古さと室温に触れる声が見られます。木造の建物で川音や軋みが届きやすいことは宿自身も明記しており、その点を承知で訪れる人の満足度が高い傾向です。
向く人 / 向かない人
- 向く: 夕食までの移動そのものを旅の演出として楽しみたい人、川沿いの客室で水音を聞いて過ごしたい人、浅草から直通特急とバスで向かいたい人
- 向かない: 館内の階段や段差が負担になる同行者がいる旅程(エレベーターなし)、物音に敏感で静かな個室性を最優先する人
具体情報
- 最寄り駅: 野岩鉄道「湯西川温泉」駅からバスで約20分、「本家伴久旅館前」下車
- 客室サイズ: 2025年改装の半露天風呂付和モダンスイートは80㎡
- 食事: 夕食は高床式の「平家隠れ館」で囲炉裏会席
- 建物: 昭和の木造本館。ロビーに樹齢500年とされる姫小松の大柱
- バリアフリー: エレベーターなし、階段・段差が多いと公式が明記
- 創業: 1666年
5. 明賀屋本館 — 那須塩原市(塩原温泉 塩の湯)
塩原の鹿股川の谷底へ、木の階段を88段。館から湯までの高低差を、階段一本で下りきる宿。
35室、渓谷の湯宿。
目安価格 ¥21,000–¥26,000 / 泊 (2名1室・通常期)

なぜ選ばれるか
明賀屋本館の川岸露天風呂は、公式の案内どおり「階段を88段下りて」たどり着く鹿股川の岸にあります。途中にはベンチが据えられ、谷の深さを歩いて測ることになります。館内には和洋折衷の太古館が残り、公式は設計者を鈴木愿一郎と記します。戦時中には女子学習院の疎開先となり、内親王の居室が当時に近い状態で保存されているという来歴も、この宿の建築を読むうえで欠かせません。平成27年の大雨で流された浴槽の一つを社員の手で復旧した記録も、公式に残されています。
集約レビューの傾向
公開レビューデータを集計すると、川岸の露天風呂への言及が突出して多く、料理や湯そのものへの評価がそれに続きます。一方で客室の古さを挙げる声は少なくありません。露天風呂も、階段の長さや温度の高さを理由に評価が割れる対象になっており、谷底の湯を目的に選ぶ人ほど満足度が高い傾向です。
向く人 / 向かない人
- 向く: 渓谷の地形そのものを体で感じたい人、自然湧出の源泉かけ流しを目的に宿を選ぶ人、5軒の中で価格を抑えたい人
- 向かない: 車椅子利用や長い階段が難しい同行者がいる旅程(公式はバリアフリー非対応と明記)、クレジットカード決済を前提にする人(現金のみ)
具体情報
- 最寄り駅: JR「那須塩原」駅からバス約60分、「塩原塩釜」バス停から送迎(14時以降、要連絡)
- チェックイン: 14:00〜 / アウト 〜10:00
- 階段: 館内から川岸露天風呂まで88段
- 食事: 部屋食なし(一部プランは個室食)
- 駐車場: 乗用車50台
- 支払い: 現金のみ
- 休館: 毎週水曜午後から木曜午前
よくある質問
Q. 訪れる時期はいつがよいですか?
A. 編集部が推すのは、雨上がりに木組みや廊下の床が濃く見える晩秋です。新緑の時期は渓谷側の窓が緑で埋まり、川岸へ下りる明賀屋本館の階段も歩きやすくなります。冬の湯西川は積雪と路面凍結への備えが必要です。
Q. 足腰に不安があっても泊まれますか?
A. 5軒とも階段移動が前提です。一の湯本館と本家伴久は館内にエレベーターがなく、明賀屋本館はバリアフリー非対応と公式が明記しています。おちあいろうは2階客室へエレベーターがあり、御所坊は階段移動の少ない客室を公式で案内しています。
Q. 子連れでも泊まれますか?
A. 泊まることはできますが、段差の多さを前提に計画するのが現実的です。おちあいろうは子ども連れを1階客室に限っています。御所坊は約130㎡のスイートを三世代・四世代での利用を想定して設えています。
Q. 車なしでも行けますか?
A. 行けます。おちあいろうは修善寺駅から、明賀屋本館は塩原塩釜バス停から送迎があります。一の湯本館は上塔ノ沢バス停から徒歩1分、本家伴久は宿の前にバス停があります。御所坊は神戸電鉄有馬温泉駅へ連絡すれば迎えがあります。
Q. 建物の見学はできますか?
A. おちあいろうは公式サイトで文化財ツアーを案内しています。ほかの4軒は、宿泊したうえで共用の廊下や階段、浴場への動線を歩くことが建築を知るいちばんの近道です。
本記事の参考情報
・文化遺産オンライン: 塔之澤一の湯本館 — 建築年代・増築年・構造・建築面積
・文化遺産オンライン: 眠雲閣落合樓配膳室階段棟 — 階段棟の構成と棟梁青木清平
・文化遺産オンライン: 眠雲閣落合樓住居棟及び廊下 — 地上2階地下1階の住居棟と廊下
・箱根町観光協会: 塔ノ沢一の湯本館 — 客室数・チェックイン時刻
編集部から
5軒に共通するのは、平らな敷地を諦めた代わりに、移動そのものを宿の体験に変えてきたことです。おちあいろうは廊下と階段棟に良材を注ぎ、御所坊は区画ごとに眺めを入れ替え、一の湯本館は増築の跡を屋根の重なりとして残しました。本家伴久は川に橋を架け、明賀屋本館は谷底まで階段を一本通しています。いずれも段差を消すのではなく、段差を見せる方向で建築が組み立てられている点が、新しい宿との決定的な違いと言えます。晩秋の雨上がりに訪れるなら、チェックインの後、まず館内を一周してみてください。床の高さが変わるたびに、自分がいま斜面のどのあたりにいるのかがわかってくるはずです。次に階段や廊下を主語にして読むなら、どの宿を選びますか。